豊前 中津城
Nakatsu castle

     中津城跡【大分県県中津市二ノ丁】
黒田官兵衛・資料館【大分県中津市二ノ丁1273-2】
     中津神社【大分県中津市二ノ丁1273-1】

【立地】平城
【別称】丸山城・扇城・小犬丸城
【天守の構成・形式】連結式層塔型天守

【歴史】中津城の起源は詳らかではないが、天慶の乱(939年)の時、小野好古・源経基らが中津に
布陣、諸城を征服し、中津宮の跡に城を築き、蔵人行家に護らせたとある。更に応永年間(1394~
1427年)頃、中津江五郎、永享年間(1429~1441年)頃、重松刑部少輔義忠、明応年間(
1492~1501年)頃、藤原幸範の居城が在ったと云うが、場所は定まらない。1586~158
7年年「九州征伐」の戦功により、黒田官兵衛孝高は豊前国の京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐6
郡12万3000石〔16万石とも〕を与えられ、1588年中津城の築城を始めた。黒田氏の入国を
喜ばない宇都宮・野仲氏一族と、これに随従する宇佐・下毛の諸将らに対して黒田孝高は討伐の軍を起
こし、上毛郡の日隈城を手始めに川底城・池永城・福島城・犬丸城・大畑城を攻略し、野仲氏が立て籠
もる長岩城の堅城を抜いた。宇都宮氏については黒田・毛利連合軍2万騎で攻め、大敗して退いた。孝
高は宇都宮鎮房と和を講じ、鎮房の娘を子の長政に嫁がせることで停戦した。長政と千代姫の婚約を祝
う為、孝高は宇都宮父子を中津へ招いたが、宴会の最中に斬殺、千代姫と従臣らは広津川原で磔にして
殺した。長政は直ちに宇都宮氏の本城を攻め込んで制圧、ここに宇都宮氏は滅亡した。長政は、159
2~1598年「文禄・慶長の役」に参戦、1600年「関ヶ原の戦い」の戦功により、筑前国52万
石へ移封、丹後国宮津から豊前一国と豊後国国東・速見の2郡39万9000石で細川忠興が中津城へ
入った。1602年小倉城築城着工、忠興も小倉城へ居城を移し、中津城は忠利の居城となる。細川氏
は城壁・櫓を修築し、三の丸の増築工事は、1607年に竣工。大家川の流れを塞ぎ、山国川の水量が
豊富になる工事を行い、武家屋敷・町割りなど、1620年現在の中津城の基礎が出来上がった。同年
、忠興は忠利に家督を譲って中津城で隠居、出家して三斎宗立と名乗った。1632年忠利は肥後国熊
本へ移り、播磨国龍野から小笠原長次が8万石入封して立藩した。長勝-長胤と継いだが、1698年
長胤は日頃の不行跡、家中不取締りを理由に所領没収となった。その子長円は4万石で家名相続をし、
長邕の夭逝によって弟長興は、1716年播磨国安志へ移り、丹波国宮津から奥平昌成が豊前国上毛・
下毛・宇佐3郡、筑前国怡土郡、備後国甲怒・神石・安那3郡で10万石を領有して入封した。入封直
後、昌成は小笠原時代に疲弊した領内の再建を図るために倹約令を発し、飲食を節約。絹布の着用を禁
じた。また、酒造・綿業・製鑞などの商売を保護育成したが、1732年旱魃や虫害で大凶作となり、
城下では餓死者が絶えなかった。その後、1746年昌敦-1758年昌鹿-1780年昌男-178
6年昌高と続き、1794年文武稽古場の進徳館を創設。1825年昌暢-1832年昌猷-1842
年昌服と続く。1864年「第1次長州征伐」では藩兵を率いて豊前国黒原に出陣、更に「第2次長州
征伐」では藩兵を国東・宇佐海岸へ派遣した。1865年昌邁に継がれ、1868年3月徳川慶喜追討
が起こると、津山藩主松平慶倫、越後国高田藩主榊原政敬らと共に朝廷に哀訴嘆願した。1869年版
籍奉還、1871年廃藩置県を迎える。1964年模擬天守と二重櫓が建てられ、現在は水堀、石垣、
土塁などが残る。

【所感】大分県で初めて訪ねた城です。撮影の前半は快晴、後半は曇天となり、全てを写真に収めるこ
とが出来ませんでしたが、半分諦めていたので、遠征としてはまずまずだったと思います。建物は模擬
建造物ですが、水堀や石垣はよく残っています。天守最上階から見ると、中津川〔旧高瀬川〕の河口近
くに造られたことが分かり、海〔周防灘〕も望めます。




復興 五重五階 天守と復興 二重櫓・本丸

 



復興 五重五階 天守・本丸・奥平家歴史資料館


 

本丸北端の石垣〔写真:左〕奥平神社・本丸〔写真:右〕

 

椎ノ木御門跡に立つ鳥居〔写真:左〕三斎池・本丸〔写真:右〕



本丸南端の石垣・黒田官兵衛如水が築いた石垣