琉球 南山城
Nanzan castle

南山城跡・高嶺小学校【沖縄県糸満市大里1901】
     高嶺中学校【沖縄県糸満市大里1902】

【立地】丘城
【別称】南山グスク・島尻大里グスク・高嶺グスク

【市指定史跡】南山城跡

【歴史】北に嘉手志川を有する標高58m、比高18mの台地に築かれた丘城である。築城
年は定かではなく、13世紀とも14世紀とも云われる。山南王が拠点としたグスクであり
、明国『明実録』には承察度〔1380〜1396年〕−汪応祖〔1403〜1413年〕
−他魯毎〔1415−1429年〕の名がある。承察度〔しょうさっと→ウフサト〕=大里
〔おおざと→ウフサト〕按司のことと推測され、明国との貿易を優位に進めるために中国風
の名前に変えたと考えられる。1380〜1396年山南王『承察度』は8回に亘り明国に
使者を送り、同じ頃、同族『汪英紫』〔八重瀬按司〕も明国に使者を送っている。また、1
398年2月朝鮮の『李朝実録』には山南王『温砂道』〔上里按司か〕の名もあり、同族で
複数の人物が山南王を名乗っていたことになる。1397年を最後に明国の記録から『汪英
紫』の名が無くなり、1403年同族の豊見城グスク城主『汪応祖』が山南王の弟の名で使
者を送っている。同年、2度目の使者を送った『汪応祖』は、山南王『承察度』の死亡と後
継ぎに指名されたことを報告し、明国の冊封を受け、山南王となった。1403〜1413
年13回使者を派遣して活発に貿易を行っていたが、1414年頃、兄『達勃期』に殺害さ
れた。汪応祖没後、配下の按司や豪族によって『達勃期』は殺害され、『汪応祖』の子『他
魯毎』が王に就いた。『他魯毎』は1415〜1429年に明国に7回使者を派遣し、その
後、明国の記録に登場することは無かった。1429年『尚巴志』は『他魯毎』を滅ぼし、
三山〔南山・中山・北山〕を統一。首里グスクを拠点に琉球国王統・第1次尚氏王統が始ま
る。現在は神社、学校に変わり、石積みが残る。

【所感】短時間で多くのグスクを回っていた関係で、南山グスク碑・墳墓・拝所と近くのカ
デシガー〔カリユシの泉〕・他魯毎の墓など、細部まで撮れなかったので、次回、リベンジ
します。







南山神社



石積み