陸奥 二本松城
Nihonmatsu castle

二本松城跡【福島県二本松市郭内3丁目・4丁目】


【立地】山城
【別称】霞ヶ城・霧ヶ城・白旗城

【国指定史跡】二本松城跡

【歴史】嘉吉年間(1441〜1444年)、畠山満泰の築城に始まり、白旗ヶ峰〔標高345〕の山
頂を本丸とし、山麓に居館を構えたと云う。満泰の曾祖父高国・祖父国民は足利尊氏に仕えた。尊氏は
奥州総大将として多賀城に置いていた石堂父子を京都に召還し、新たに奥州官領を多賀城に下向させる
為、高師直は畠山国民、足利直義は吉良貞家を推薦。尊氏は2人を下向させ、安達郡を二分して東半分
を吉良貞家、西半分を畠山国氏に与え、国氏は父高国と共に安達氏の居館が在った殿池ヶ岡〔二本松〕
に本拠を置いた。京都で足利尊氏と弟の直義が対立すると、多賀城でも尊氏党の畠山高国・国氏父子と
直義党の吉良貞家が抗争したが、畠山父子は吉良貞家に圧迫されて、岩切城、及び、利府城に追い詰め
られて自刃した。国氏の子国詮は家臣に護られて会津に潜む。しかし、弟直義は兄尊氏に毒殺され、形
成は逆転。これを機に畠山国詮は本領を回復し、殿池ヶ岡の居館に復帰したとされる。1414年畠山
国詮の子道泰は奥州街道を見下ろせる地に二本松城を築き、9代に亘って居城とした。1585年畠山
義継は伊達政宗に降伏。義継は仲介に入った政宗の父伊達輝宗にお礼に出掛けた際、捕虜として引き揚
げようとして鉄砲の餌食になり、義継の子義綱は相馬氏などの仲介で開城、会津を去った。政宗は片倉
小十郎を城代とし、後に伊達成実が入る。1590年「小田原征伐」後、秀吉の奥州仕置により伊達政
宗は出羽国米沢へ移り、蒲生氏郷が伊勢国松ヶ島12万石から42万石で黒川城へ入城、会津藩を立藩
した。蒲生郷成を二本松城に入れたが、後に白石へ移し、町野重仍を置いた。1595年氏郷は京都で
病没し、嫡男秀行が継ぐが、家臣間で対立が起こり、家中不行届きを理由に、1598年下野国宇都宮
へ転封となり、越後国春日山から上杉景勝が120万石で鶴ヶ城へ入封。景勝は下条駿河守忠親を二本
松の城代とした。1600年家康が「会津征伐」に動くが、下野国小山で石田三成挙兵の報を知り、小
山評定の後、一旦江戸へ戻り、西進して関ヶ原で勝利した。戦後、景勝は会津120万石を没収、出羽
国米沢30万石へ移され、蒲生秀行が下野国宇都宮から60万石で再入封した。秀行は門屋助右衛門を
二本松城の西城〔新城館〕、梅原弥座衛門を二本松城の東城〔松森館〕に置いた。1612年会津藩主
蒲生秀行が没し、10歳の忠郷が継ぐが、1626年嫡子が無いまま没し、蒲生氏は断絶。1627年
加藤嘉明が会津40万石を与えられると、娘婿の松下石見守重綱が下野国烏山から5万石で封じられ、
この時、二本松藩が立藩したとされる。入封後、半年足らずで重綱が没すると、その子長綱が家督を継
ぐが、幼少の為、翌1628年陸奥国三春3万石へ移封となり、替わって三春から加藤嘉明の三男明利
が入る。1641年明利が没し、その子明勝が継ぐが、1643年会津藩主加藤明成の出奔により、明
勝も除封となり、3000石の旗本に降格となる。陸奥国白河から丹羽光重が10万700石で入封。
1644年光重は城下町の造営に着手、10年に亘り、藩領の城下六町と領内百十ヵ村を11組に分け
、各組に70石〜150石取りの代官2名〔後に1名〕を配属する支配機構を整えた。その後、長次−
長之−秀延−高寛−高庸−長貴−長祥と続き、1817年長富の時、藩校「敬学館」が建てられる。ペ
リー来航後、長国は幕命を奉じ、1858〜1867年上総国富津砲台警備、1863年江戸と京都警
備、1864年水戸天狗党征伐、1865年京都再警衛、1867年江戸湾第二砲台守備、白河城番守
備などを務めた。戊辰戦争では、1868年4月奥羽越列藩同盟に加盟すると、藩士は須賀川や白河口
を始め、各地を転戦した。三春・守山を降伏させた新政府軍は二本松の攻撃を目指し、先ず本宮を突き
、更に小浜を占拠した。新政府軍が降伏した三春藩の案内で本宮・小浜の2方面から二本松へ攻め寄せ
た時、藩兵精鋭の大半が須賀川方面に出陣しており、城内には老人・少年・町人・農兵しか居なかった
。二本松の南、大壇口に12〜17歳の少年兵総勢60名が防御線を張ったが、激しい銃撃を受けて倒
れ、20歳の隊長木村銃太郎も戦死。長国は米沢へ逃げ、家老丹羽一学らは火を放ち落城に殉じた。長
国が朝命により謹慎、その後、米沢藩主上杉茂憲の弟頼丸が養子として家督を継ぎ、5万石の減知、長
裕と名乗る。1869年長裕は版籍奉還により二本松藩知事となり、1871年廃藩置県を迎える。1
982年二階櫓・箕輪門・多聞櫓・塀が復元され、1995年山頂の本丸の石垣が整備され、2007
年国史跡に指定される。現在は曲輪、石垣、土塁、堀、井戸跡などが残る。

【所感】福島県で小峰城跡の次に訪ねた城が二本松城跡です。麓の箕輪門付近の建物と石垣、山頂の天
守台辺りが見どころになりますが、山頂に土塁や空堀といった土の遺構が在ることに驚きました。他に
も遺構は有ると思いますが、時間の都合でこのような内容で終わりました。





天守台と石垣


 

復興 二重櫓・箕輪門と多聞櫓〔写真:左〕山腹に残る石垣〔写真:右〕

 

山頂の土塁〔写真:左〕山頂の空堀〔写真:右〕

 

とっくり井戸跡〔写真:左〕二本松少年隊の像〔写真:右〕