伊豆 韮山城
Nirayama castle

  韮山城跡【静岡県伊豆の国市韮山字韮山】
   江川邸【静岡県伊豆の国市韮山字韮山1】
  源氏茶屋【静岡県伊豆の国市山木803】
韮山高等学校【静岡県伊豆の国市韮山字韮山229】

【立地】平山城

【歴史】1491年堀越公方足利政知が亡くなると、その子茶々丸は異母弟潤童子とその母
を殺害して家督を奪った。1493年この内紛に乗じて興国寺城主伊勢宗瑞〔伊勢盛時・北
条早雲〕は伊豆へ侵攻、堀越公方茶々丸を討ち、伊豆全土を平定した。標高50m、比高3
5mの山に韮山城を築いた宗瑞は、相模侵出に乗り出す。1495年小田原城を攻略、息子
氏綱を小田原城主に置き、1519年早雲は韮山で亡くなった。没後、伊豆は北条方の笠原
氏、清水氏が置かれ、1569〜1570年武田信玄の伊豆・駿河侵攻で城下まで攻め込ま
れる。甲相同盟によって一旦治まるが、1579年同盟が破綻すると、武田勝頼との抗争が
激化。1580年駿河湾で海戦、北条氏政は清水康英に韮山城の守りを固めることを命じた
。1582年武田氏滅亡、1585年頃より、天下統一を目指す豊臣秀吉との戦いに備えて
改修が進められ、1589年北条氏康の四男氏規が入った。1590年3月秀吉の「小田原
征伐」が始まり、韮山城は北条氏規軍3600、対する秀吉軍は織田信雄・細川忠興・蒲生
氏郷・蜂須賀定政・福島正則・仙石秀政・森忠政ら4万4000。3ヶ月に及ぶ籠城戦の後
、兵糧が尽き、徳川家康の勧告で開城した。北条氏政・氏照は切腹、氏政の子氏直は高野山
へ追放、一時氏直に同行していた氏規は秀吉に召し出され、河内国内6900石余を給され
、1600年2月に没した。氏規の子氏盛は1万1000石を領有、氏盛の孫氏宗の時に河
内国狭山に陣屋を構え、孫相伝する。韮山城は開城後、内藤信成が入り、家康関東移封の際
、改めて韮山1万石に封ぜられた。1600年「関ヶ原の戦い」の後、1601年信成は駿
河国府中4万石に加増転封となり、廃城となった。現在は山林、神社、テニスコートなどに
なり、曲輪、土塁、堀切が残る。


【所感】韮山城跡へ行く際は、源氏茶屋の西、江川邸【国重文】北の無料駐車場が利用出来
ます。韮山城跡の入口は城池の北の土手を東へ歩き、突き当りに看板、右手に三の丸へ上る
丸太段が有ります。三の丸はネットが張られたテニスコートになっており、西側に土塁、東
側に高い土塁が横たわってます。南の細道を入ると権現曲輪。ここも西側に土塁、東側の一
段高い場所に熊野神社が建ち、櫓が在った可能性があるようです。神社の周りにも土塁が在
ります。権現曲輪から丸太段を上ると二の丸で、全周土塁で囲まれていることが確認出来ま
す。二の丸を過ぎると堀切、道を進んで丸太段を上ると最高所の本丸です。曲輪の中で最も
狭く、東側に土塁が残り、西に富士山が見えます。その先は長い土塁と帯曲輪、そして高い
土塁に囲まれた塩蔵が在ります。塩蔵は焔硝〔塩硝〕の塩のみが伝わって塩蔵になったと考
えられ、焔硝蔵だった可能性があるようです。この城は曲輪間を移動する道が西側、曲輪の
東側に高い土塁、城の東側に池、何れも東方を警戒した造りになっています。




韮山城跡入口への道



三の丸東側の入口



三の丸



三の丸東端の土塁



権現曲輪入口















権現曲輪





熊野神社南端の土塁・権現曲輪



熊野神社・権現曲輪



熊野神社西端の土塁・権現曲輪



権現曲輪→二の丸へ上る階段







二の丸の土塁



二の丸−本丸間の堀切



二の丸→本丸へ向かう道



本丸へ上る階段





本丸







本丸−塩蔵間の土塁と帯曲輪





塩蔵〔焔硝蔵か〕