三河 西尾城
Nishio castle

   西尾城跡【愛知県西尾市錦城町】
西尾市歴史公園【愛知県西尾市錦城町231−1】
 西尾市資料館【愛知県西尾市錦城町229】
  西尾小学校【愛知県西尾市錦城町162−1】
  御剱八幡宮【愛知県西尾市錦城町327】
    盛厳寺【愛知県西尾市馬場町70】

【立地】平城
【別称】西条城・錦丘城・鶴城・西丘城

【市指定史跡】

【西尾藩】1601〜1871年

【歴史】吉良氏の興りは三河国守護職足利義氏の長男長氏〔1211〜1290年〕とされ
、満氏−貞義−満義と続き、満義の嫡子満貞〔〜1384年〕が西条吉良氏、満貞の弟尊義
が東条吉良氏と称された。築城者は東条城と同じく足利義氏と云う。西条吉良氏は満貞の後
、俊氏−義尚−義元−義堯−義郷・義安〔1536〜1569年〕・義昭と続いた。吉良氏
の衰退は室町時代末期。西条の吉良義堯が織田信秀〔信長の父〕と結んだことから、153
6年今川義元・荒川義広の攻撃で戦死。義堯の嫡子義郷は駿府で没し、二男義安は織田氏に
誼を通じた疑いで、1553年放逐、三男義昭が東条城を併有した。1561年義昭は家康
の部将酒井正親・本多広孝らの攻撃を受けて牧野貞成が守る西条城と東条城を奪い取られ、
1563年三河一向一揆蜂起の際、家康に敵対した。1564年一揆鎮圧後、義昭は謝罪し
たが赦されず、近江国へ出奔、後に摂津国芥川で戦死し、ここに西条吉良家は断絶した。1
561年落城となった西条城に酒井正親〔1521〜1576年〕が入り、1585年正親
の子重忠が大改築を行い、三重天守が築かれた。家康は刈谷城を亀城、西尾城を鶴城と命名
。1590年家康関東移封に伴い、重忠は武蔵国川越へ移り、代わって田中吉政〔1548
〜1609年〕が岡崎・西尾両城主となる。1600年「関ヶ原の戦い」の後、1601年
本多康俊〔1569〜1621年〕が2万石で入り、西尾藩を立藩した。1617年大給松
平成重、1621年本多俊次、1636年天領、1638年太田資宗、1645年井伊直好
、1659年増山正利−正弥、1663年土井利長−利意−利庸−利信、1747年三浦義
理−明次、1764年大給松平乗佑−乗完−乗寛−乗全と続き、1871年乗秩で廃藩とな
る。現在は本丸丑寅櫓、鍮石門が復元され、曲輪、石垣、水堀が残る。


【所感】西尾城跡の主役は、これまで平成8年3月に復元された本丸丑寅櫓や鍮石門でした
が、平成26年3月二の丸に「丑寅櫓台」「天守台」「土塁」が復元され、こちらに主役を
取られそうな勢いがあります。見所が増えて、大変嬉しく思います。











復元 三重三階 本丸丑寅櫓

 

西尾城址の石碑・本丸〔写真:左〕本丸裏門の土塁〔写真:右〕

 

御劔八幡宮・神明社・本丸〔写真:左〕本丸表門の石垣〔写真:右〕

 

本丸井戸〔写真:左〕西尾神社・本丸〔写真:右〕

 

旧近衛邸・二の丸〔写真:左〕二の丸井戸跡〔写真:右〕







復元 二の丸天守台



復元 二の丸塀

 

復元 天守台−丑寅櫓台間の土塁・二の丸〔写真:左〕復元 二の丸丑寅櫓台〔写真:右〕





復元 三重三階 二の丸丑寅櫓



二の丸



復元 鍮石門



本丸−二の丸−姫丸を仕切る水堀



西尾市資料館・姫丸



姫丸辰巳櫓台

 

西尾城姫丸門址の石碑・西尾市資料館〔写真:左〕西尾城東之丸太鼓門跡の看板・西尾小学校正門〔写真:右〕

 

西尾藩勘定所地方役所址の石碑・錦城町〔写真:左〕西尾城大手門址の石碑と看板・幸町〔写真:右〕



西尾城追羽門址の石碑と看板・大給町