日向 飫肥城
Obi castle

    飫肥城跡【宮崎県日南市飫肥10丁目1】
飫肥城歴史資料館【宮崎県日南市飫肥10丁目1-2】
   飫肥小学校【宮崎県日南市飫肥10丁目1-3】
飫肥城観光駐車場【宮崎県日南市飫肥9丁目1】
  飫肥城保育所【宮崎県日南市飫肥10丁目2-2】
     振徳堂【宮崎県日南市飫肥10丁目2-1】

【立地】平山城
【別称】舞鶴城

【市指定史跡】

【歴史】築城年、築城者は不明。南北朝時代(1336~1392年)には存在していたと云う。14
58年日向の都於郡城を拠点に勢力を広げて来た伊東氏に対し、島津忠国は族将の新納近江守忠続を志
布志城→飫肥城へ移して押さえとした。1484年櫛間城主伊作久逸は伊東祐国と謀って、島津氏が固
守する飫肥城を落としたが、翌1485年島津氏に奪われ、伊東祐国は弟祐邑と共に8000の兵を率
いて再び飫肥城を攻撃、祐国は敗れて討死した。島津氏は、伊東祐国の子尹祐が父の仇と称して大軍で
来襲することを恐れ、飫肥城主の新納忠続を志布志へ移し、伊東尹祐に飫肥の換地として三俣院千町の
地を与えて和睦、飫肥城に帖佐城主島津忠廉を入れ、忠朝-忠広-忠親と続いた。1536年7月伊東
尹祐が没し、祐清〔後の義祐〕が家督を継いだ。1541年伊東義祐は10月より飫肥城攻略を初め、
1562年5月18日一旦は城を攻め取ったが、9月17日夜、島津忠親が櫛間より兵を進め、水ノ手
口から攻め入って奪われた。1568年義祐は篠ヶ城を本営として2万の兵を率いて飫肥城を攻撃、1
46日後に落とし、次男祐兵を城主とした。この時、飫肥城を中心とする丘陵一帯は城砦として整備さ
れ、町屋や寺院、神社も配された城下町が形成され始めてと云う。1572年「木崎原の戦い」で義祐
は島津氏に大敗し、伊東氏は退勢へ向う。1577年島津軍の来襲により伊東義祐・祐兵父子は豊後へ
敗走、大友氏を頼った。飫肥城は島津氏の将上原長門守が入る。1578年大友+伊東軍は日向奪回に
動くが、「耳川の戦い」で大敗、日向は完全に島津領となる。伊東氏は河野氏を頼って四国へ渡るも安
住出来ず、義祐は大坂の堺浦で病没。次男祐兵は播磨国姫路で秀吉に仕え、1587年秀吉の「九州平
定」の際、祐兵は案内役を務めた功により飫肥〔日向国内3万6000石〕を得て、本格的な城下町整
備を行った。1600年「関ヶ原の戦い」の際、東軍に属して本領を安堵されたが、同年10月祐兵は
没し、その子祐慶が継いだ。1617年2代将軍秀忠より5万7080石余を与えられる。1627年
薩摩藩との境界争い「牛の峠境界論所」が起こり、1634年一旦治まるが、1674年再発し、両藩
は江戸評定所で対決し、飫肥藩の主張が認められた。合わせて「飫肥杉〔伊東杉〕」も獲得し、窮迫す
る藩財政の重要な財源となった。1636年祐慶没後、祐久が継ぎ、弟祐豊に3000石が分与される
。1689年祐豊の孫祐賢の具申により、3000石は徳川家の蔵米で支給されるようなった。165
7年祐由襲封の際、弟祐春に3000石が分与され、飫肥藩は5万1000石となる。祐由の後、16
61年祐実〔1662年・1680年・1684年に大地震〕-1714年祐永-1739年祐之-1
744年祐隆-1757年祐福-1781年祐鐘-1798年祐民-1812年祐丕-1814年祐相
と続き、1831年藩校振徳堂を創設、1869年祐相・祐帰は城外の豫章館へ移り住む。1870年
祐帰が継ぎ、1871年廃藩置県を迎える。1976年飫肥藩の藩校振徳堂の改修、1978年大手門
の復元、1979年松尾丸に書院造りの御殿が建設された。現在は曲輪、土塁、空堀、石垣などが残り
、観光客も多い。日本100名城の一。


【所感】飫肥城跡は酒谷川が南へ湾曲した内側に位置し、北に城、南に城下町・武家屋敷が在ります。
宮崎のバスツアーにも観光地として組み込まれており、「おび天」が有名なので、昼食の場所にもなっ
ています。城跡は飫肥小学校となっていますが、大手門付近の横掘・土塁、松尾丸の土塁、旧本丸の枡
形虎口・土塁などが見所。至るところに苔が生えているので、苔城と呼びたくなります。









大手門南側の横堀





復元 大手門



大手門西側の土塁



二の曲輪東端の土塁



本丸枡形虎口




松尾丸北端の土塁



松尾丸西端の土塁



松尾丸南端の土塁



松尾丸東端下の石垣



松尾丸-旧本丸間の堀切



旧本丸の枡形虎口







旧本丸と飫肥杉



旧本丸西端の土塁

 

復元 旧本丸北門


 

旧藩校 振徳堂〔写真:左〕豫章館〔写真:右〕