美濃 お茶屋屋敷
Ochashiki residence

お茶屋屋敷跡【岐阜県大垣市町赤坂町3421−1】
 赤坂中学校【岐阜県大垣市町赤坂町3421】
   正安寺【岐阜県大垣市町赤坂町4011】

【立地】平地

【県指定史跡】お茶屋屋敷跡

【歴史】『お茶屋』は徳川将軍家が上洛するために造営された休泊施設である。美濃・近江
の中山道沿いには大垣市赤坂の『お茶屋屋敷』、米原市の『柏原御殿』、野洲市の『永原御
殿』などがあり、造営は沿道の諸大名に命じられた。お茶屋屋敷造営時は高須藩領に在り、
藩主徳永寿昌は藩士安倍孫兵衛に普請奉行を命じ、1604年に着工、岐阜城の殿舎などを
移築して1605年に完成した。徳川家康は1605年・1606年・1611年・161
4年、徳川秀忠は1615年に休泊している。1628年天領となり、代官の岡田将監支配
の下、建物の大半が取り壊され、1633年より大垣藩主松平定綱の所領、1635年戸田
氏鉄が入った頃までは『御殿』と称される建物が一棟建っていたと云う。その後、幕末まで
番人が置かれ、内部は畑地、外郭全体が竹藪になっていたことから、地元では『お茶屋藪』
と呼ばれていた。戦後までは方形の土塁や空堀が残っていたが、1949年赤坂中学校建設
で西半分が消失し、東半分だけが残された。1576年県指定史跡。現在は所有者の好意で
開放され、牡丹が咲く5月頃は多くの人で賑わう。現在は中学校・花畑・宅地となり、土塁
、空堀が残る。

【所感】お茶屋屋敷跡は、旧中山道〔県道216号線〕の南、赤坂宿本陣の南西に位置し、
正安寺西隣り〔お茶屋屋敷跡の北〕にお茶屋屋敷跡専用の広い駐車場〔看板アリ〕が在りま
す。遺構の土塁や空堀は北端・東端・南端に残り、東に表門、北に裏門があったとされます
。屋敷跡は花壇となり、時々中学生の声が聞こえる長閑な場所です。





裏門跡




お茶屋屋敷跡の標柱



北端の土塁と空堀



古井戸跡





東端の土塁と空堀



北東角の土塁と空堀







南端の土塁と空堀



表門跡





お茶屋屋敷跡・花壇