常陸 小田城
Oda castle


        小田城跡【茨城県つくば市小田2377】
小田城跡歴史ひろば案内所【茨城県つくば市小田2532-2】

【立地】平城

【国指定史跡】小田城跡

【歴史】小田氏の祖八田知家は源頼朝の信任が厚く、1185年守護・地頭の設置が公認さ
れると、最初の常陸守護に任ぜられ、国政の中心地であった多気に近い小田に居館を構え、
城を築いたと伝わる。1193年多気氏を失脚させ、常陸における地位を安定させるが、北
条氏の進出により所領が縮小、1315年小田氏は守護職を完全に失った。知家の後、2代
知重-3代泰知-4代時知-5代宗知-6代貞知と続き、1333年鎌倉幕府滅亡後、後醍
醐天皇の建武新政府に参加、南北朝分裂時は南朝方に付いた。1338年南朝方の重臣北畠
親房を迎えたことで小田城は関東に於ける南朝方と一大拠点なったが、1339年北朝方の
攻撃を受け、1341年小田治久は降伏して北朝方に従った。8代孝朝の代に足利氏への忠
誠から旧領の大半を回復したが、鎌倉幕府に反抗した小山若犬丸をかくまったことで討伐を
受け、再度、忍従を強いられた。9代治朝-10代持家-11代朝久-12代成治と続き、
1495年13代治孝が弟小田顕家に殺害される事件が起こり、14代政治〔堀越公方足利
政知の子、小田成治の養嗣子〕は再び勢力を拡大させ、江戸通泰、結城正勝らと戦い、15
48年に没した。後北条氏の北関東侵出が激しくなり、15代氏治の代になると小田城の争
奪戦が繰り返される。1556年結城政勝との戦いに敗れ、小田城を奪われるも半年で奪回
。1562年北条・結城・小山・那須氏と和睦。1564年上杉・佐竹氏などに攻められ土
浦城へ敗走するが、1565年小田城奪回。1566年上杉謙信に小田城を開城、1569
年「手這坂の戦い」で佐竹・真壁氏に敗れ、小田城を奪われる。1570年佐竹義重は太田
資政に小田城を与え、後に子の梶原政景が城主となった。1583年小田氏治は佐竹義重に
降伏して、後に藤沢城に入る。1590年佐竹氏に叛して小田城奪回を図るが失敗に終わり
、結城氏の食客となる。1600年小場義成が城主となり、1601年小田氏治は結城秀康
に従って越前国へ移って間もなく没した。1602年佐竹義宣が出羽国秋田へ移り、廃城と
なる。1935年国指定史跡に指定され、現在は発掘調査と整備により、曲輪、土塁、堀が
復元されている。


【所感】平城+土の城は殆どが住宅化や耕地整備で消失し、遺構の一部を残る程度でした。
小田城跡も例に漏れず、本丸の中央を筑波鉄道〔関東鉄道〕が走り、周辺は耕地、草地であ
ったようですが、現在は曲輪、堀が復元され、戦国時代の平城を間近で見れるようになりま
した。旧筑波鉄道常陸小田駅跡は小田城跡歴史ひろば案内所・駐車場に変わり、ここから線
路跡に築かれたサイクリングロード〔りんりんロード〕を南へ歩いていくと、正面に3m程
の土塁、その脇に堀、「これが平地の土の城なんだ…」その迫力に気持ちが一気に高揚しま
す。よく明治の地籍図で黒く塗りつぶした縄張り図を見ることがありますが、「実物で存在
する!」。今は本丸・南西馬出曲輪・東曲輪の3つですが、他にも曲輪、堀跡が沢山在るの
で復元が進めば充分に観光資源になると思います。茨城遠征の訪城先として行こうか?どう
か?迷いましたが、結果、茨城で最も感動出来た城跡でした。




本丸の北堀と入口



本丸の西堀と入口



本丸内の溝と土塁



本丸内の溝



本丸の西池跡




本丸の東池跡



本丸東端の土塁



本丸



本丸南西虎口





本丸南東角の涼台



本丸北東角の鐘撞堂



本丸の北堀と鐘撞堂



本丸の北虎口と北堀



本丸東虎口







本丸の東堀



本丸-東曲輪間の木橋跡







東曲輪



東曲輪の東堀



本丸の西堀



本丸の南堀



南西馬出曲輪の東堀から更に東へ続く堀



南西馬出曲輪東側の土橋





南西馬出曲輪



南西馬出曲輪の南堀