三河 小川志茂城

Ogawa Shimo castle

 小川志茂城跡【愛知県安城市小川町志茂】
石川家成荼毘地【愛知県岡崎市鴨田町向山】
    蓮泉寺【愛知県安城市小川町志茂339】
    上宮寺【愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木36】
    本宗寺【愛知県岡崎市美合町平地50】
    勝鬘寺【愛知県岡崎市針崎町朱印地3】

【立地】平城
【別称】小川城

【歴史】1446年石川政康の築城とされる。石川氏は源義家の子陸奥五郎義時に始まり、2代武蔵守
基義が河内石川郡を領して石川氏を名乗ったが、源頼朝に与して、1181年平家に攻められて討死し
た。7代義忠が下野国に赴き、9代時成が小山氏を称し、12代政康が三河国小川へ移って石川氏に復
した。政康は、1411年下野国小山城に生まれ、蓮如上人に従って下野国から三河国小川郷へ来住し
、野寺の一向宗本証寺の守備に任ぜられたと云う。1486年小川城で亡くなる。13代親康は松平宗
家4代親忠に仕え、四男康頼は蓮如上人の弟子となって明了と称し、これが石川山蓮泉寺の開基である
。14代忠輔は松平宗家4代親忠・5代長忠、15代清兼は松平宗家7代清康、8代広忠に仕え、清兼
の後室は水野忠政〔於大の方の父〕の娘「妙西尼」である。清兼には康正・一政・家成の3人の息子が
いたが、康正の長男石川数正が、1585年家康から秀吉へ出奔したことから、石川氏の家系は家成の
子孫に継がれた。石川数正は、1549年竹千代〔家康〕が駿河国今川義元の人質になった時から近侍
し、1562年織田信長との交渉で「清洲同盟」成立に大きく貢献した。1563〜1564年「三河
一向一揆」では門徒でありながら、浄土宗に改宗して家康に味方した。家康の信頼を得た数正は家老と
なり、酒井忠次とともに家康の両翼となる。1569年叔父の石川家成に代わって西三河の旗頭となり
、1582年「本能寺の変」で信長が討たれると、家康の「伊賀越え」に同行。1584年「小牧、長
久手の戦い」では酒井忠次・本多忠勝とともに小牧山本陣を護った。1585年数正は突如秀吉に出奔
し、家康から去る。理由は不明。1590年「小田原征伐」の後、数正・康長が信濃国松本8万石を領
し、天守、城下町、街道を築き、1593年没する。城跡は本城公園の東、蓮泉寺の北辺りとされ、現
在は住宅に変わり、遺構は無い。

【所感】小川町志茂信号交差点に在る蓮泉寺の北、本城公園の東辺りが城跡とされます。本城公園の東
屋に「本城の由来」が書かれています。蓮泉寺は石川山蓮泉寺と云い、石川政康が築いたお寺です。石
川数正公の墓は本宗寺、数正の母の墓は本宗寺と上宮寺に在ります。1563〜1564年「三河一向
一揆」の際、、本宗寺は勝鬘寺の南方に在って焼失、上宮寺も取り壊されましたが、その後、家康に寺
の復興を強く嘆願したのは数正の母芳春院妙西尼で、この時、本宗寺は美合町平地に再興されました。



 


石川政康公の墓・蓮泉寺西〔写真:左〕石川氏の菩提寺 蓮泉寺〔写真:右〕


 

石川政康公・石川数正公の墓・本宗寺〔写真:左〕石川家成の母芳春院妙西尼の墓・本宗寺〔写真:右〕

 

石川家成荼毘之碑・鴨田町向山・民家裏〔写真:左〕石川家成荼毘地・鴨田町向山・民家裏〔写真:右〕