三河 大給城
Ogyu castle

   大給城跡【愛知県豊田市大内町長坂・亜知垣内・城下・城坂】
    松明院【愛知県岡崎市細川町根古屋123】
    宝珠院【愛知県豊田市足助町東井ノ上16】
    円川碑【愛知県豊田市中垣内町弁天】

松平親乗公の墓【愛知県豊田市坂上町阿知田】

【立地】山城
【別称】荻生城・大給村古城

【国指定史跡】松平氏遺跡(松平城跡、松平氏館跡、高月院、大給城跡)
【市指定史跡】

【大給松平家】乗元 ― 乗正 ― 乗勝 ― 親乗 ― 真乗 ― 家乗 ― 乗寿 ― 乗久 ― 乗春
          ― 乗邑 ― 乗佑 ― 乗完 ― 乗寛 ― 乗全 = 乗秩

【歴史】1468~1486年頃、標高204m・比高130mの山頂に築かれた城である
。同時期、「円川の戦い」で松平宗家3代信光が大給の長坂新左衛門、保久の山下庄左衛門
を攻略し、松平宗家4代親忠の次男乗元〔1443~1534年〕が大給松平家の祖となる
。後に親忠より岡崎細川城を与えられて移城。1534年乗元が没し、2代乗正〔1482
~1541年〕は、1506年今川氏の武将伊勢新九郎長氏の岩津城攻めの際、松平宗家5
代長親の先手として戦功を挙げる。3代乗勝〔1496~1524年〕を経て、4代親乗〔
1515~1577年〕は、1530年松平宗家7代清康の「宇利城攻め」で戦功を挙げる
。5代真乗〔~1582年〕より家康に仕え、岡崎細川城へ移る。真乗には弟に左近尉がい
たようだ。1568年家康の遠江侵出に参戦し、1570年上杉謙信、北条氏康との同盟で
は外交交渉に加わる。1575年「長篠、設楽ヶ原の戦い」、1581年「高天神城攻め」
で戦功を挙げる。6代家乗〔1575~1614年〕は、1590年家康関東移封に伴い上
野国那波へ移り、廃城になる。1601年美濃国岩村城へ移封となり、2万石で大名となる
。その後も遠江国浜松、上野国館林、下総国佐倉、肥前国唐津と転封を繰り返し、最後、三
河国西尾で明治を迎える。現在は国史跡に指定され、曲輪、石垣、土塁、横堀、堀切、竪堀
が残る。


【所感】巴川に架かる松平橋を渡り、国道301号線が左へ折れる九久平町簗場信号から1
600m程走ると、右手に「大給城址公園・松平乗元の墓」の看板が在ります。この脇道を
450m程上ると右手に駐車場、更に150m程進んだ右手に登城口の丸太段が在ります。
登城道を100m程進んだ所で丁字路になり、右が松平乗元公の墓、左が城跡です。100
m程進んだ右手に「大給城址縄張図」が立ち、ココが城跡散策のスタート地点です。大給城
跡は最高所に主郭・二の郭、一段下った東隣りに三の郭が在ります。主郭の南方に館跡、二
の郭・三の郭の北方に水の手曲輪、城郭北端・東端・西端の尾根は堀切で城への侵入を遮断
しています。主郭の石垣・石塁、三の郭虎口の櫓台・土塁・石垣、水の手曲輪の砂防堰堤型
石垣・それを囲む曲輪群、城郭北端・西端・東端の堀切。広く、高低差のある場所に数多く
の遺構が散在し、どれもこれも撮影が楽しくなる城跡です。





大給城跡入口





登城道





大給松平家初代乗元公の墓





城郭東端の堀切



城郭東端の虎口





三の郭虎口



三の郭南端の土塁と二の郭櫓台






三の郭と土塁



城郭北西端の堀切



水の手曲輪へ降りる竪堀状の通路











水の手曲輪上段の堰堤



集水枡・水の手曲輪





水の手曲輪下段の石積み堰堤



城郭北端の堀切



二の郭東端の櫓台





二の郭



主郭-二の郭間の竪堀



主郭北東角の高石垣









主郭-二の郭間の石塁





主郭



大給城址の石碑・主郭



物見岩から見た主郭



物見岩から見た豊田市街



居館跡



城郭西端の掘切

 

円川碑〔写真:左〕大給松平家4代親乗公の墓〔写真:右〕

 

大給松平家2代乗正公の墓・宝珠院〔写真:左〕大給松平家3代乗勝公・4代親乗公の墓・宝珠院〔写真:右〕

 

大給松平家5代真乗公の墓・細川町徳林〔写真:左〕大給松平氏の墓・松明院〔写真:右〕