土佐 岡豊城
Oko castle

    岡豊城跡・高知県立歴史民族資料館【高知県南国市岡豊町八幡1099-1】
               若宮八幡宮【高知県高知市長浜6600】
               長浜集会所【高知県高知市長浜5276-1】
長宗我部長親公初陣之像・鎮守の森公園緑地【高知県高知市長浜】

【立地】平山城

【国指定史跡】岡豊城跡

【歴史】築城時期は、鎌倉時代(1185年頃~1333年)末期から南北朝時代(1336~139
2年)とされ、標高97mの独立丘陵に築かれた長宗我部氏の居城である。長宗我部氏の始祖は秦能俊
と云い、長岡郡宗部郷〔南国市岡豊町〕に入部した際、地名をから長宗我部氏を名乗ったと云う。能俊
の後、俊宗-忠俊-重氏-氏幸-満幸-兼光-重俊-重高-重宗-信能-兼綱-能重-元親-文兼-元
門-雄親-兼序-国親-元親と続いた。1332年11代信能の時、足利尊氏に属して介良荘の土豪の
狼藉を鎮定、1336年南北朝の内乱が始まると、細川顕氏の傘下に入って北朝方で活躍、軍功により
、大埇・吉原地頭職、朝倉、領家、深淵郡と介良中塩田を得た。1367年13代兼綱の時、故あって
朝倉領家、深淵半郷を削られるが、1380年頃、細川頼益が土佐守護代になると、1386年頃、1
4代能重に香美郡吉原の地を与えた。1471年16代文兼の時、長子の元門が父に叛いて追放される
事件が起こり、桑名、京都を彷徨う中、たまたま家臣に出会い、罪を許されていることを知り、土佐に
帰国したが、弟の雄親が家督を継いでいる。1502年18代雄親は、土佐守護の細川政元より長岡郷
江村郷と松名重富の旧領、土佐郡一宮十町を与えられるが、1507年6月細川政元の横死によって国
内の均衡状態が崩れると、1508年岡豊城を本山氏・山田氏・大平氏に攻められ、19代兼序〔元秀
〕は嫡子千雄丸〔後の国親〕を幡多郡の一条房家へ預け、城と共に自刃した。一条房家は千雄丸に長宗
我部氏再興の望みを叶えさせる為、本山氏・山田氏・吉良氏・大平氏の諸氏に対して仲介の労をとり、
本領の江村・廿枝郷などを還付させ、1518年千雄丸を元服させて国親と名乗らせた。20代国親は
旧領の岡豊に復し、岡豊城を拠点に周辺への侵攻を開始。先ず江村郷吉田城主の吉田周孝と結んで軍事
組織を作り上げ、1547年頃、大津城主天竺氏を滅ぼし、介良城主横山氏を降し、下田城主下田駿河
守を敗死させ、十市城主細川宗桃・池城主池頼定を臣従させ、改田城主蚊居田氏の協力を得て、長岡郡
南部一帯を制圧した。更に土佐郡東部へ勢力を伸ばし、1549年秋に山田城主山田基通を降し、15
58年頃国親の三男親泰が香宗我部家を継いだ。1560年土佐中央部の覇権を懸けて本山茂辰との激
戦の最中、6月15日国親が病死。同年5月長浜・戸ノ本の合戦で初陣を果たしていた元親が家督を継
ぎ、長宗我部家21代当主となる。1562年朝倉合戦で本山茂辰と激戦を展開。1563年1月本山
氏は傘下の諸将が元親に降っている状況を見て、朝倉城を焼いて本山へ退いた。弘岡の吉良城の守将も
撤退した為、元親の弟親貞が吉良城主となって吉良左京進を名乗った。吾妻郡南部を手中に収めた元親
は、1568年本山氏を討ち倒し、1569年安芸城主安芸国虎を自害に追い込んだ。一条氏と親近関
係を維持していた元親だが、勢力を拡大する一条兼定との間で衝突が起こる。後に一条氏を討ち、兼定
の子内政を大津城へ移して娘を娶わせたが、内政は元親の家臣波川玄蕃の謀叛に与して追放され、一条
氏は滅亡した。1575年末頃より阿波へ出兵し、1576年南伊予、1578年讃岐へ侵攻。その後
、1581年頃まで阿波の三好、伊予の西園寺・宇都宮、讃岐の香川・羽床の諸氏を降す。1582年
「本能寺の変」で織田信長が没すると、元親は中富川で十河存保を破り、勝瑞城を落として阿波を制覇
。1584年十河城を落して讃岐を制覇。1585年春、伊予の湯築城主河野通直を降して四国統一を
成し遂げた。しかし、1585年6~7月豊臣秀吉に敗れ、土佐一国を安堵。1586年秀吉の命で元
親は長男信親とともに九州へ出兵、島津の大軍と豊後戸次川で戦って敗れ、信親は戦死した。元親は、
1588年冬頃、岡豊城から大高坂へ移り、1591年更に浦戸城へ移り、岡豊城が廃城になったとさ
れる。2008年国指定史跡となる。現在は高知県立歴史民俗資料館、岡豊山歴史公園となり、曲輪、
土塁、石垣、井戸跡、空堀、竪堀などが残る。

【所感】登城口は他にもあるようですが、私は高知県立歴史民俗資料館「長宗我部元親・飛翔之像」の
裏手から登りました。二ノ段→堀切→詰下段→詰→三ノ段→虎口→四ノ段→展望広場→伝厩跡曲輪の順
で訪ねることが出来ます。二ノ段-詰下段間の堀切は大きく見応えがあり、堀切内に井戸跡も在ります
。詰下段・詰・三ノ段には発掘された建物の礎石、建物の広さが分かるように説明石と共に地面に表現
されており、他にも横堀、竪堀も在ります。長宗我部長親公初陣の像は、若宮八幡宮から南東に延びる
道を進んだ鎮守の森公園緑地内に在ります。近くに長浜集会所も在ります。




長宗我部元親公初陣之像・鎮守の森公園緑地



二ノ段



二ノ段-詰下段間の堀切と井戸跡




詰下段



建物の基礎石と石垣土塁・三ノ段



詰・主郭

 

岡豊城跡の石碑・詰〔写真:左〕四ノ段虎口脇の石垣〔写真:右〕



四ノ段虎口



四ノ段



伝厩跡曲輪