肥前 大村城
Omura castle

大村城跡・大村神社【長崎県大村市玖島1丁目34】
長崎県教育センター【長崎県大村市玖島1丁目24-2】

【立地】平山城
【別称】玖島城・久島城

【県指定史跡】大村藩お船蔵跡

【歴史】1598年大村喜前の築城とされる。室町・戦国期に於ける大村氏は、郡川流域に
沿って鳥甲城・中岳砦・菅無田砦・今富城・好武城・尾崎城などを構えていたが、1564
年大村純忠が三城を築いて移った。純忠は肥前国彼杵地方を領したキリシタン大名で、高来
領主有馬晴純の次男大村純前の養子となり、一門や家臣団の統制に苦慮しつつもポルトガル
船との貿易で勢力を強化、一時期、龍造寺隆信に属したが、隆信没後、領主の地位を回復し
た。1587年純忠の子善前は豊臣秀吉の島津討伐に従軍し、本領2万7900石を安堵さ
れたが、貿易の拠点であった長崎を公領として没収され、財政面で痛手を被った。更に15
92~1598年「文禄・慶長の役」に出陣、帰国後、玖島城を築いた。1600年「関ヶ
原の戦い」では初め西軍に従軍したが、後に徳川家康に寝返って本領を安堵されたが、長崎
は継続して公領となった為、完全に貿易利潤を失った。その為、1607年喜前とその子純
頼は一族一門十三家の知行地没収を行い、「御一門払い」を断行、庶家一門を追放して藩主
権力を強化する一方、蔵入地を拡大して財政窮乏を克服した。1619年純信が継ぎ、寛永
の検地を行って貢租制度を固めて、1650年没後、幕臣伊丹播磨守勝長の四男純長が家督
を相続。1657年隠れキリシタンが発覚する「郡崩れ」が起こり、藩内を揺るがす事態と
なった。逮捕者が多く、藩内では対応出来なかった為、長崎・平戸・島原・佐賀の各藩にお
預けとした。純長の実父勝長は幕府勘定奉行であった為、自藩の失態に対して恭順の意を示
したことで大事には至らなかったが、これを機に藩内で取り締まりを強化し、キリシタンの
一掃を図った。1706年純尹-1712年純庸を経て、1732年純富の時、「享保の大
飢饉」で被害を受けたが、サツマイモ栽培の普及で大被害を免れた。1748年純保を経て
、1761年家督を継いだ純鎮は殖産興業策として松島炭鉱の開鉱、陶器業の奨励に尽くし
、1790年藩校五教館・治振軒を開校。1803年純昌を経て、1836年純顕が継ぎ、
江戸から朝川善庵、豊後から広瀬淡窓らの儒者を招き、家臣の文武両道を奨励。1846年
純顕が病死、1847年純熈が継ぐ。1866年藩内で幕府を補佐する佐幕派と尊王派間で
軋轢が生じ、勤王党の首領松林飯山が暗殺されると、佐幕派を排除して藩論を統一した。1
868年「戊辰戦争」では渡辺清率いる新精隊を上京させ、江戸城無血開城に貢献、上野の
彰義隊討伐、会津城攻めで功績を挙げ、賞典禄3万石を下賜される。1869年版籍奉還後
に知藩事となり、1571年廃藩置県を迎える。現在は大村公園、大村神社、教育センター
などに変わり、1992年板敷櫓を復元、曲輪、石垣、空堀などが残る。


【所感】1泊2日最後の訪城先が大村城跡です。私は本丸を最後とする為、先ず、東麓の池
「桜田の堀」から歩いて南麓へ回り込み、「長堀跡」→「南堀跡」→「板敷櫓」→「大村藩
お船蔵跡」の順で行きました。城の大手口は長堀と南堀の間に在り、桝形虎口を上り切ると
二の丸。右へ進むと「台所口門跡」、左へ進むと「虎口門跡」、本丸に大村神社、その背後
に「搦手門跡」、雁木も在ります。城の規模としては広いものではありませんが、本丸の石
垣やお船蔵跡がよく残り、長崎空港に近く、撮り甲斐がある城跡です。




大村藩お船蔵跡【県指定史跡】



長堀跡



復元 板敷櫓



穴門













大手桝形門跡



二の丸空堀



二の丸(南屋敷)




本丸南端の石垣



本丸台所口門跡



本丸虎口門跡



本丸搦手門跡



本丸搦手門跡西側の雁木



大村神社・本丸