美濃 小里城
Ori castle

小里城跡【岐阜県瑞浪市稲津町小里】
三栄化工【岐阜県瑞浪市稲津町小里2707−1】
なごみ亭【岐阜県瑞浪市稲津町小里2698−1】

【立地】山城
【別称】小里城山城

【県指定史跡】

【歴史】標高403m、比高170mの山頂、1574年小里光明の築城とされる。小里氏の始祖は美
濃国守護土岐成頼の四男元頼とされ、1495年7月「船田合戦」に於いて兄政房に敗れた人物と云う
。小里は土岐(小里)光忠が3600石で当地を領したことに始まる。1572年武田信玄は2万の兵
を率いて遠江へ侵攻。東濃は信濃国飯田城主秋山信友が派遣され、織田方の岩村城を落し、明知城・苗
木城の両遠山氏らを美濃国恵那郡上村〔上村合戦〕で破り、光忠・光次父子は遠山氏に従って下原田で
討死した。小里家は光忠の子〔光次の弟〕光明が継ぎ、1574年城が築かれた。1582年「本能寺
の変」の際、信長に従って二条城に居た小里光久〔小里光次の子〕は討死。織田信孝方の小里光明は信
孝を自刃に追い込んだ羽柴秀吉には従わず、小里を離れて浜松の家康のもとへ逃れた。廃城年は不明。
1584年「小牧、長久手の戦い」の際、小里光明・光直父子は家康軍で参戦、光直は戦死。1590
年光明と光親〔光直の子〕は家康の関東移封に従って相模国へ移り、1600年「関ヶ原の戦い」の戦
功により、光親は土岐・恵那郡で3580石を得た。1623年4月小里光重は嫡子無く没し、旗本の
小里本家は断絶した。現在は曲輪、石垣などが残る。

【所感】県道20号線、県道33号線が交わる下川折信号交差点〔三栄化工の場所〕から200m程西
進すると、なごみ亭手前左手に登城口、右手に小里城跡用の駐車場が在ります。登城口を入ると、小里
城跡の歴史看板→石垣→伝大手門脇の石垣→御殿場と呼ばれる広い曲輪が3段在ります。御殿場奥に本
丸への登城口が在り、大手曲輪→二の曲輪を経て、天守台が残る本丸まで20分程で着きます。大河ド
ラマ「風林火山」に関連したものか? 看板・標柱があちこちに設けられ、木も切り倒されて、以前よ
り撮り易くなっています。



 

小里城跡登城口〔写真:左〕小里城跡の看板・登城口先〔写真:右〕

 

登城口先の石垣〔写真:左〕東砦跡〔写真:右〕



東砦跡裏尾根の堀切

 

伝大手門跡東側の石垣〔写真:左〕伝大手門手前の屈曲した土塁〔写真:右〕



御殿場の伝大手門跡



2段目の御殿場



最上段の御殿場

 

小里氏御殿場跡の石碑・御殿場最上段〔写真:左〕本丸登城口・御殿場最上段〔写真:右〕

 

本丸登城道脇の分かり易い案内標柱〔写真:左〕本丸登城道から見える小里の街〔写真:右〕

 

大手曲輪〔写真:左〕二の曲輪西端の石垣〔写真:右〕



二の曲輪

 

山頂西端の石垣〔写真:左〕山頂南端の石垣〔写真:右〕

 

本丸東端の石垣〔写真:左〕矢穴・本丸〔写真:右〕



天守台入口・本丸





扇の勾配・天守台・本丸



天守台内に建つ城山神社の社

 

天守台の東側・本丸〔写真:左〕本丸東側の巨石群〔写真:右〕



本丸