三河 大崎城
Osaki castle

       大崎城跡【愛知県豊橋市船渡町城戸中】
    豊橋船渡郵便局【愛知県豊橋市船渡町前田17−23】
大崎陣屋跡・豊橋平安寮【愛知県豊橋市船渡町城戸中4−1】
      幸稲荷神社【愛知県豊橋市船渡町城戸中40】
        龍源院【愛知県豊橋市船渡町城戸中20】

【立地】丘城
【別称】大崎村古城・大崎陣屋

【歴史】1505年牧野古白が築いた今橋城〔吉田城〕は、翌1506年に伊勢宗端〔後の北条早雲〕
の侵攻で落城となり、古白も討死した。代わって戸田憲光の次男戸田〔金七郎〕三郎兵衛尉宣光〔戸田
三郎左衛門と同一人物か〕が城主となった。1519年牧野古白の遺児三成、信成兄弟が今川軍の援軍
と共に今橋城を攻め、奪取、戸田宣成は田原城へ逃れた。この頃、大崎城は伊庭藤太の居城であったが
、戸田宣成〔〜1546年11月15日〕の入城で本格的な改修が行われた。1546年今川義元の攻
撃で今橋城は落ち、翌1547年田原城も竹千代の人質事件で落城となり、支城の大崎城も廃された。
下って、1601年織田信長の娘五徳姫に仕えた経歴を持つ中島与五郎重好が大崎城東側隣地に607
石で陣屋を構える。三河湾に影響力を持つ水軍を有し、将軍上洛時の渡海警備職を担っていた。その後
、重春〔1607〜1668年〕−重貞−昌央−勝英−勝邦−隆功−隆賢−隆成と9代続き、1868
年まで交代寄合旗本として存続した。幕末の石高は1040石余。現在は竹林、住宅、神社、寺、施設
に変わり、曲輪、空堀、土塁、土橋が残る。


【所感】県道2号線船渡町信号交差点から200m程南下した右手に豊橋船渡郵便局が在り、郵便局を
過ぎた初めての脇道を右折した突き当たりが幸稲荷神社です。神社手前一帯が大崎陣屋跡で、神社へ続
く道〔中央〕辺りに大手門・練兵場が在り、豊橋平安寮の場所が侍女・家臣の屋敷、一段低い北側の耕
地に領主の居館〔御殿〕・役所・台所・蔵などが在りました。大崎城は現在、豊橋平安寮が建つ敷地が
二の郭とされ、建物の南西角辺りから土橋を経て、主郭へ入ることが出来ます。竹薮で進み辛い状況に
なっていますが、周りを2m強の高い土塁が囲み、中央部に井戸跡と思われるものがフェンスの中に在
ります。主郭を囲む深く幅広の横堀は、三の郭とされる幸稲荷神社から堀底へ降りることが出来ます。
倒木が行く手を阻み、一部しか歩けませんが、写真を撮るには十分です。たまたま城跡を整備されてい
る方と話す機会があり、最近、苦労して切り倒した木が空堀を埋めている状態になっているそうです。
空堀の側面にコンクリートで蓋がされている箇所が見えますが、戦時中、南西沖に人工島〔城跡南西方
向に海軍橋の名が〕が在り、龍源院の門前辺りに宿泊所、城跡に防空壕が造られたそうです。



 


龍源院〔写真:左〕大崎城址碑・龍源院入口〔写真:右〕

 

大崎陣屋跡〔写真:左〕幸稲荷神社鳥居〔写真:右〕

 

幸稲荷神社・三の郭〔写真:左〕主郭空堀〔写真:右〕

 

主郭空堀に見られる防空壕の封鎖板〔写真:左〕主郭東側の土橋〔写真:右〕

 

主郭の様子・竹林〔写真:左〕井戸跡か・主郭〔写真:右〕