武蔵 忍城
Oshi castle

忍城跡・行田市郷土博物館【埼玉県行田市本丸17−23】
       行田市役所【埼玉県行田市本丸2−5】
  利根地域振興センター【埼玉県行田市本丸2−20】
        忍中学校【埼玉県行田市本丸18−6】
       中央小学校【埼玉県行田市本丸7−20】
        水城公園【埼玉県行田市水城公園1249】
  忍東照宮・忍諏訪神社【埼玉県行田市本丸12−5】

【立地】平城
【別称】亀城


【歴史】成田下総守親泰の築城とされ、築城年は文明年間(1469〜1487年)とも、1490〜
1491年とも云われる。親泰の後、親泰の子長泰が継承。1546年関東管領山内上杉憲政は岩槻城
主太田美濃守資正・忍城主成田下総守長泰らを率い、扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏らの軍勢8万余
騎で北条氏康軍8000余騎と対戦したが、大敗し、上杉憲政は上野国平井城へ逃げ帰った。1551
年氏康は平井城を攻め、1552年正月、越後の守護代長尾景虎〔上杉謙信〕を頼って上杉憲政は落ち
延びた。1553年北条氏康は忍城を攻めるも落せず、1559年長尾景虎も攻城は無理と諦めたが、
城外の下忍や持田の民家を焼かれた為、末子若枝丸を人質に和睦、景虎に属した。1560年景虎は再
び関東へ攻め入り、1561年成田長泰と共に北条氏康の小田原城を取り囲んだが、この時期、長尾景
虎は鶴岡八幡宮で上杉憲政より関東管領を受け継ぎ、名を上杉政虎と改名した。この式で長泰は上杉氏
より辱めを受けた為、手勢を率いて忍城へ引き上げ、政虎に叛いて北条氏康に属した。長泰の後、嫡子
氏長が継ぐ。1590年豊臣秀吉の「小田原征伐」の際、北条氏の属城である忍城にも石田三成・長束
正家2万3000の軍勢が攻め寄せるが、沼田に囲まれた忍城を容易に落とせず、次の利根川・荒川を
利用した「水攻め」でも落ちなかった。小田原本城開城の後、忍城も開城となるが、秀吉の関東攻略戦
で唯一落城しなかった城として忍城の名を天下に広めた。同年、徳川家康が関東移封に伴い、忍城は深
溝松平家忠が1万石で入り、忍藩を立藩するが、1592年2月下総国上代へ転封となり、代わって家
康の四男松平忠吉が10万石で封ぜられた。1600年「関ヶ原の戦い」で奮戦し、戦後、尾張国清須
52万石へ転封、忍領は天領・旗本領となり、忍城に城番が置かれた。1633年5月「知恵伊豆」で
知られる松平信綱が3万石で入封し、忍藩を再立藩した。1637〜1638年「島原の乱」の際、乱
を鎮圧した功により武蔵国川越へ転封、代わって阿部忠秋が5万石で入封した。忠秋は徳川家光の小姓
として出仕し、1623年家光が3代将軍に就任すると、1633年老中となり、1647年1万石加
増、1663年2万石の加増を受け、8万石を領有。1671年忠秋は致仕し、養子の正能に家督を譲
った。正能は実父の遺領上総国夷隅郡内1万石と合わせ、9万石を領有するところとなり、1673年
老中に列し、1681年次の正武も老中となった。正武は父の遺領である上総国1万石を弟らに分与し
、自らは忠秋の8万石を領有したが、1686年・1694年に摂津・桑名それぞれで1万石を得て、
10万石となった。1699年相模国・上野国内の所領を武蔵国へ移され、忍領城付6万石と武蔵国秩
父・鉢形・柿木領2万石を領有し、藩領の構成が整備された。1700年正武は忍城の修築に着手し、
本丸・二ノ丸の土塁に塀を築き、三重櫓1・二重櫓2・多聞櫓1を築造し、その中の三重櫓の屋根に鯱
を乗せて偉容を誇った。また、広い堀に橋を架け、水城らしさを演出した。1709年9月正武没後、
嫡男正喬が継ぎ、領内の秩父絹太織を広め、藩士の内職として足袋の製造を始めたと云う。その後、養
子正允が継ぎ、正敏−正識−正由を経て、1823年正権が陸奥国白河へ転封となり、伊勢国桑名から
奥平松平忠堯が入封。忠堯は武蔵国8万石と播磨国2万石を領有したが、1832年病気を理由に忠堯
の弟忠彦が家督を相続し、1841年4月忠彦没後、忠堯の弟忠国に継がれた。1842年忠国は上総
・安房国沿岸の防備、1853年11月品川台場の警備を命ぜられ、1863年養子忠誠に家督を相続
した。幕末の戦乱に揉まれ、1869年6月に病没、最後、養子忠敬で明治を迎える。1988年本丸
跡に三重櫓・城門が復興される。現在は郷土博物館・中学校・小学校・公園・住宅などに変わり、水堀
・土塁の一部、移築城門が残る。

【所感】埼玉遠征最終日の最後に訪ねたのが忍城跡です。城主が私と同じ成田姓であること、映画「の
ぼうの城」を観た影響から行くことになりました。縄張り図を見ると、「浮き城」と呼ばれるだけあっ
て曲輪よりも水堀の方が広大で、水城公園の池は城郭南部に位置する水堀の一部です。城郭周辺の水堀
は埋められ、行田市郷土博物館の場所が本丸、忍中学校が二の丸、忍諏訪神社・忍東照宮の場所が諏訪
曲輪となっています。事前の予習不足と時間の都合で郷土博物館周辺と石田堤の一部しか訪ねることが
出来ませんでしたが、一様の満足を得ることが出来ました。




 

模擬 御三階櫓・三重四階櫓

 

水堀の鯉〔写真:左〕忍城址の石碑〔写真:右〕

 

忍城の由来〔写真:左〕1823年松平忠堯持参の鐘楼〔写真:右〕



 

石田堤