遠江 相良館
Sagara yakata

相良館跡【静岡県牧之原市大沢】
大和神社【静岡県牧之原市相良134】

【立地】平城
【別称】相良氏館・平田城

【歴史】相良氏は藤原為憲の流れを汲む遠江守維兼を祖とし、維頼を経て、1112年周頼
の時、相良氏を称して館を構えたと云う。菊川市藤谷神社の『横地系図』によると、105
1年横地氏は「前九年の役」に際し、下向した八幡太郎義家と相良氏の娘との間に生まれた
とあり、両者は密接な関係にあった。1180年源頼朝旗揚げ当時の当主は7代頼景で、な
かなか去就を決めなかった。1181年遠江守護安田三郎義定は相良三郎頼景と浅羽荘司宗
信両人の非礼を源頼朝に訴え、その後、浅羽宗信は陳謝して許されたが、1193年7代相
良頼景は罪あって肥後国球磨郡多良木に下向させられた。1198年8代長頼も九州へ下向
を命ぜられ、肥後国球磨郡人吉荘を領し、以後、長く鎮西の御家人となった。「長頼が孫六
郎頼俊は異賊襲来の日、勲功を顕はし鎌倉殿の御感に預る」〔藩翰譜〕ともあり、その後、
頼広→定頼→前頼の三代は南朝に仕え、前頼の子実長から足利氏に仕え、戦国期には島津氏
らに圧迫されながらも家名を保ち、1600年「関ヶ原の戦い」の際、頼房〔長毎〕は西軍
に属したが、途中から徳川方に転じて旧領を安堵され、江戸大名〔肥後人吉藩2万2千石〕
として相良氏が代々続き、明治を迎える。一族のうち相良頼綱は相良の故地に残り、相良荘
の一部を支配したとされる。相良館は萩間川東岸の大沢で、通称「中島」という水田の中に
在る1.5mの微高地、30m×10m、15m×10mの広さを持つ2つの島状台地が並ん
でいた。この一帯は江戸時代に採土が行われ、現在は堀・土塁などは消滅し、遺構は無い。

【所感】相良館跡は萩間川を挟んだ相良城跡の北方に位置し、大和神社から湊橋を渡り、突
き当りの野球グランドPから東を向くと、相良城館碑がポツンと立っています。具体的な場
所、広さは分かりません。





相良館跡碑