近江 坂本城
Sakamoto castle

         坂本城跡【滋賀県大津市下阪本町3丁目】
          東南寺【滋賀県大津市下阪本町3丁目6−14】
すき家161号大津下阪本店【滋賀県大津市下阪本町3丁目6−28】
     キーエンス研究所【滋賀県大津市下阪本町3丁目2−20】
     エネオス山本石油【滋賀県大津市下阪本町3丁目3−1】
     auショップ坂本【滋賀県大津市下阪本町3丁目2−20】
    村田製材所・明智塚【滋賀県大津市下阪本町3丁目5−35】
         松田医院【滋賀県大津市下阪本町3丁目4−29】
        聖衆来迎寺【滋賀県大津市比叡辻2丁目4−17】
          西教寺【滋賀県大津市坂本5丁目13−1】


【立地】水城
【別称】阪本城

【歴史】1571年9月「比叡山焼き討ち」の後、織田信長は宇佐山城の守将明智光秀に滋
賀郡〔湖西南部〕の支配を命じ、琵琶湖畔に坂本城を築城、一年余で完成した。下阪本は比
叡山東麓の門前町であり、町中を西近江路が走り、東端は琵琶湖という水陸交通の要所であ
る。また、光秀の弟秀満は壺笠山に城を築き、山水2城で下阪本を守った。1582年6月
2日光秀は「中国攻め」に向かわず、京都本能寺に宿泊する信長を急襲、次いで信長の嫡子
信忠を二条御所で自害させた。6月3日信長の訃報を聞いた秀吉は直ぐに動き出す。6月1
3日「中国大返し」で帰陣した羽柴秀吉軍と山城国山崎で合戦となり、光秀軍は総崩れ、同
夜、僅かな手勢で坂本城へ向かう途中、山崎栗栖で落ち武者狩りに遭い、光秀は敢え無い最
後を遂げた。一方、安土城の守将明智秀満は光秀軍の敗北を知ると、直ぐさま坂本へ帰城。
城の金銀財宝を部下に与えて離散させ、残りを西教寺へ寄進、光秀の愛刀・書画は堀秀政に
渡した。その後、城に籠って光秀の妻子、自分の妻を殺害、自ら天守に火を放って亡くなっ
た。その後、羽柴秀吉は丹羽長秀に坂本城の再建を命じ、1583年「賤ヶ岳の戦い」の際
、軍事基地となった。後に杉原家次→浅野長政が城に入って城下町を整備したが、1586
年大津城築城に際し、坂本城を解体、資材が運ばれ、廃城となった。現在は店、住宅となり
、湖岸に石垣が残る。


【歴史】復元縄張り図と現在の地図を照らし合わせると、北西角≒明智塚、南西角≒すき家
の駐車場、これらの以東が本丸エリアで、現在、キーエンス研究所の国道161号線沿いに
本丸を示す石碑が置かれています。ちなみに阪本城址碑の場所は二の丸の南西角になります
。聖衆来迎寺と西教寺に移築城門、再訪で撮ることが出来ました。





坂本城本丸跡の石碑・本丸



明智塚・本丸



東南寺・二の丸



坂本城跡の石碑・二の丸




坂本城三の丸外堀遺構



坂本城移築城門・聖衆来迎寺表門



坂本城移築城門・西教寺総門



明智光秀一族の墓・西教寺