遠江 真田山城
Sanadayama castle

真田山城跡【静岡県周智郡森町一宮3801】
 小國神社【静岡県周智郡森町一宮39561】
 太田茶店【静岡県周智郡森町一宮3822】

【立地】平山城
【別称】真田城・一宮城

【町指定史跡】

【歴史】元亀年間(1570〜1573年)、小國神社南方の丘陵南端〔標高116m、比
高70m〕に武藤刑部丞氏定が築いたとされる。武藤氏の初見は遠江国初代守護安田義定の
五奉行の一人武藤五郎頼高(遠江国目代)で、鎌倉時代(1185〜1333年)初期、源
頼朝の命で九州へ下向した武藤資頼の弟である。〔1226年資頼は大宰府の少弐職に就任
、1258年その子資能も太宰少弐となり、資能より武藤氏→少弐氏を名乗る〕小國一宮社
〔小國神社〕は遠江国の総鎮守であり、遠江国目代であった武藤五郎頼高は、見附国府や一
宮周辺を守護に代わって直接支配したとされる。1194年遠江国守護安田義定の斬首に連
座して頼高も処され、暫く武藤氏の領有は見えないが、1432年武藤与次郎用定が守護斯
波方の大谷豊前入道玄本と争論、幕府の裁許で一宮荘代官職に任ぜられた。武藤氏は今川氏
に従ったが、1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が没して今川氏が弱体化すると、15
68年武田・徳川両軍は遠江侵攻を始め、草ヶ谷に居を構えていた武藤刑部丞氏定は武田方
に属した。この時期、真田城が築かれたと云う。氏定は一時甲州に逃れたが、1572年遠
江攻略で帰参し、一宮諸城の構築を案内したとされる。同年、武田軍は「三方ヶ原の戦い」
で徳川軍に圧勝、1573年信玄没後、1581年「第二次高天神城の戦い」の際、氏定は
武田軍で戦死した。現在は山林となり、曲輪、土塁、横堀、堀切、井戸跡が残る。

【所感】県道280号線沿い太田茶店から200m南下した左手に「真田城と武藤氏」の看
板と「楽園真田城趾」の石碑が立ち、その背後の山が真田山城跡です。「真田城と武藤氏」
の看板には縄張り図もありますが、現在地も違い、登城道も描かれていない為、井戸跡から
引かれた黒い線を登城道と間違え、橋の正面の竹林を進んで諦めた人もいると思われます。
ただ、縄張り図自体の精度は高いので、事前にスマホで撮っておくことをお勧めします。実
際に「登城口」「本丸まで100m」といった看板は無く、橋を渡って直ぐに右へ曲がり、
川沿いを歩いて竹藪へ入ると、本丸まで道が続いてます。右手に谷を見ながら登って行きま
すが、谷が終わった右手の杉・シダが生える広い傾斜地に、縄張り図に描かれた井戸跡があ
ります。この日は湿っている程度でしたが、登城道へ続く溝があるので、湧水・雨水が多い
時はそちらへ流れて行くのでしょう。再度、登城道へ戻ると、今度は左手に竪堀を思わせる
V字谷があります。この谷は主郭南側の横堀が落ちる場所であり、主郭西側の井戸跡の水が
流れ込む場所でもあります。主郭南側の横堀と同じように土塁が続き、その上を歩いて主郭
東端の枡形虎口に至ります。枡形虎口の外側から主郭の北東辺りまで土塁が築かれています
。主郭土塁が無くなる辺りからシダを掻き分けて下りると、主郭北側の横堀に出ます。外側
の土塁は一部切れていますが、主郭の北から西側へ回り込むように続いています。主郭の横
堀は全てシダに覆われて撮り辛くなっています。主郭西端の枡形虎口は崩落し、外から入ろ
うとすると、腰まであるシダに阻まれて登り難しくなっています。主郭西側には先程の横堀
が回り込み、その外に人が造ったであろう大小の平坦地、井戸跡があります。反対の主郭東
側にはこの城で最も素晴らしい遺構の堀切があります。他にも曲輪なのか自然地形なのか分
からない平坦地・傾斜地もあります。最近の本ではお勧めの城として挙げられていますが、
登城道や遺構の標柱が無いのは個人所有の山ということでしょうか?




登城口











登城道



登城途中の井戸跡



登城道



主郭西側の竪堀のようなV字谷



主郭西側の井戸跡



主郭西側の曲輪



主郭南側の横堀(シダ)と土塁







主郭東端の枡形虎口





主郭の様子



主郭北東端の土塁





主郭北側の横堀と土塁





主郭東側の堀切