陸奥 仙台城
Sendai castle

   仙台城跡【宮城県仙台市青葉区川内1・青葉山】
宮城県護国神社【宮城県仙台市青葉区川内1】
   東北大学【宮城県仙台市青葉区川内】
 仙台市博物館【宮城県仙台市青葉区川内26】

【立地】平山城
【別称】青葉城・青葉山城・五城楼・千代城

【国指定史跡】仙台城跡

【歴史】1600年「関ヶ原の戦い」の後、伊達政宗が築いた城である。1189年源頼朝
が奥羽を平定して後、千葉胤通が青葉山に居城を構え、1596年国分盛重〔伊達政重〕が
佐竹義宣へ出奔して廃城となった地である。1601年それまでの岩出山城が狭小であった
為、青葉山丘陵に築城を始め、名を「千代」→「仙台」へ改めた。1602年岩出山城の家
臣、町人、城下町も仙台へ移し、1603年に完成。湾曲した広瀬川西岸に在り、青葉山〔
標高144m〕東腹の平地〔標高117〜115m〕に本丸を置く、日本最大級の城郭であ
る。藩内の統治には48ヶ所の館を置き、それぞれ家臣を配置した。仙台藩62万石の藩主
となった政宗だが、幕府より過重な軍役を賦課されて出費が増大、次第に藩財政は窮乏して
いった。この状態を打破すべく、領内の産金、海外貿易を考え、1613年藩士支倉常長を
メキシコ経由でイスパニア、ローマへ派遣したが、通商交渉は成立せず、1620年に帰国
した
。更なる打開策として、米の増産、農民の余剰米を買い上げて江戸へ廻漕する買米仕法
を中心に政策を転換した。1636年政宗没後、嫡男忠宗が家督を相続し、組織の整備、領
内総検地などを行う。1639年二の丸が完成し、政庁を利便の良い二の丸へ移す。165
8年忠宗没後、三男綱宗が継いだが、遊興放蕩が過ぎた為、叔父の伊達宗勝と親族大名から
、本人と仙台藩家老に注意を促したが、聞き入れられず、これを幕府に申し出、綱宗の隠居
、二歳の嫡子亀千代〔のちの綱村〕への家督相続が成立した。1671年伊達騒動〔寛文事
件〕となり、幕府の家老酒井忠清邸で、乗っ取りを企てた伊達宗勝派と伊達一門の間で斬り
合いとなる。伊達一門の伊達宗重が斬殺され、柴田外記朝意も切傷がもとで亡くなった。事
後処理では、伊達宗勝は土佐藩へ、その子宗興は小倉藩へお預けの身となった。この後、財
政に不安を抱えながらも、吉村−宗村−重村−斉村−周宗−斉宗−斉義−斉邦−慶邦−宗基
と続き、最後、慶邦の養子宗敦が家督を相続して、廃藩置県を迎えた。1882年二の丸が
焼失し、残った大手門は、1931年国宝に指定されたが、1945年の空襲により、隅櫓
とともに焼失した。1967年大手門隅櫓が復興され、2003年に国史跡に指定されてい
る。現在、本丸は宮城県護国神社、二の丸は東北大学、三の丸は仙台市博物館に変わり、曲
輪、石垣、水堀、土塁などが残る。

【所感】仙台市街の西、広瀬川西岸に仙台城跡が在ります。仙台市街から広瀬川の大橋を渡
り、仙台城跡入口の信号を左折して、本丸までレンタカーで行きました。今回は時間に限り
があったので「伊達政宗像」「本丸石垣」「大手門隅櫓」を最低条件として撮ることにしま
した。天候が晴、曇り、雪の繰り返しで、何とか撮り終えましたが、寒い中、2時間の撮影
は疲れました。撮影後、不完全燃焼気味な気持ちを「ずんだシェイク」「牛タン定食」で挽
回しましたが、また機会があったら、廟所も含めて再訪したいと思います。




伊達政宗公胸像・東丸(三の丸)



東丸(三の丸)南端の巽門跡



東丸(三の丸)東端の土塁



東丸(三の丸)北端の子門跡



東丸(三の丸)北側の水堀(五色沼)



東丸(三の丸)東側の水堀(長沼)



東丸(三の丸)西端の清水門跡



大手門脇の石垣



大手門跡



大手門脇櫓



二の丸・東北大学



沢門下(沢曲輪)の石垣




沢門跡





中門跡











本丸北壁の石垣



詰門東脇櫓台と詰門跡



詰門西脇櫓台と詰門跡



本丸大広間の礎石



伊達政宗公騎馬像・本丸



本丸東端の懸造跡



本丸東端の巽櫓跡







本丸西端の石垣



本丸西端の酉門跡





本丸南端の埋門跡