尾張 一色城
Isshiki castle

一色城跡【愛知県瀬戸市曽野町】
 感応寺【愛知県瀬戸市水北町1950】

【立地】山城
【別称】一色山城・水野城・城ケ嶺城・五万石城

【歴史】街道沿い、標高240mの頂に築かれた山城である。築城年は定かではない。尾張
国志段味郷の郷司職を任ぜられた水野高家の子高康、その子有高、大金太郎重高らの居城で
あったとされる。1221年「承久の乱」の際、尾張国山田庄小幡城主山田重忠に従って水
野高康、重高、高重ら、一族郎党を率いて美濃国の墨俣を護り、木曽川、宇治川、奥嵯峨に
転戦したが、水野高康、有高は戦死、一族は離散し、水野基家は尾張国を去って大和国に居
たと云う。基家の孫水野又太郎良春は吉野の南帝に仕えて軍功があり、志段味に帰って新居
を開き、新居城主になったとされる。室町時代、織田信秀、信長の家臣磯村左近の居城とな
り、2代磯村左近は1556年織田信長×弟信行の「稲生の戦い」の際、信長方で戦ってい
る。感応寺は水野家菩提寺で、小金観音堂は磯村氏の再建と云われる。現在は山林となり、
曲輪、虎口、堀、土橋が残る。

【所感】曽野町北西部、感応寺の北1キロ程、県道207号線と定光寺キャンプ場〔通常は
閉鎖〕の分岐点に挟まれた山が城跡です。この分岐点に立つ「定光寺・ほたるの里」の看板
から県道207号線を500m程北上した左手、最高速度40キロの標識手前が登城口にな
ります。低くなっている擁壁からよじ登るように尾根に乗り、左手南方の尾根上をひたすら
歩きます。特に道は無く、足場を選んで木々の間を150m程歩くと、正面に高さ5m程あ
る切岸が現れ、登りきるとTの曲輪です。北からT、U、Vと曲輪が並び、各曲輪の南には
枡形虎口が設けられています。Tの曲輪西側には段を持って2つの腰曲輪が在り、Tの曲輪
内に櫓台状の土壇、T−Uの曲輪間には土橋が架かり、両脇には深さを持った堀が残ってい
ます。曲輪内は木々が多く、遺構の写真が撮り辛い状況にありましたが、長年、場所が不明
であった一色城を肉眼で確認することが出来、大変嬉しく感じた時間でした。


 

定光寺 ほたるの里の看板〔写真:左〕登城口〔写真:右〕

 

登城道の様子〔写真:左〕Tの曲輪〔写真:右〕

 

Tの曲輪の枡形虎口〔写真:左〕T−U曲輪間の土橋〔写真:右〕

 

Uの曲輪の枡形虎口〔写真:左〕南端のVの曲輪〔写真:右〕

 

感応寺〔写真:左〕小金観音堂〔写真:右〕