蝦夷 四稜郭
Shiryokaku

四稜郭【北海道函館市陣川町59】

【立地】平城
【別称】新台場・神山台場・新五稜郭・神山の新台場

【国指定史跡】四稜郭

【歴史】蝦夷地を占領した榎本武揚・旧幕府脱走軍に対して、新政府軍の進攻が明らかになった186
9年、五稜郭の北方守備陣地として、田家・赤川〔函館市赤川町〕方面からの敵の牽制する為に急造し
たもので、設計者は榎本軍の陸軍奉行大鳥圭介とされる。元々、新台場、神山台場と呼ばれていたが、
稜堡が4つあることから五稜郭に対称して、明治以降、四稜郭と呼ばれるようになった。四稜郭は五稜
郭から北方3キロに位置し、権現山の傾斜地〔標高101m〕に築かれた。五稜郭・箱館が眺望出来る
地であるが、五稜郭の鬼門にあたる為、当地から南西1キロに東照宮を置いた。1868年9月19日
夜半、榎本武揚率いる旧幕府艦隊は品川沖を脱し、途中、仙台に立ち寄り、東北戦争で敗れた大鳥圭介
・土方歳三ら旧幕府脱走軍を収容して総勢約3000人となり、10月20日蝦夷地の鷲ノ木〔茅部郡
森町鷲ノ木町〕に上陸した。1868年10月25日箱館を占領した旧幕府脱走軍は五稜郭を政庁とし
て北海道を支配した。1869年3月新政府軍の奪回を予想した脱走軍は、五稜郭と箱館湾口の弁天台
場を核として防御の態勢を固めたが、平野部に在る五稜郭を固める為に各所に出丸堡塞を持つ必要があ
った。特に主戦場となることが予想された渡島平野南端の押さえとして、四稜郭が生まれた。1869
年4月旧幕府脱走軍の兵200人と近在百姓100人で昼夜兼行で工事を行い、四隅に砲座を配した四
稜堡塞が完成し、更に近くの東照宮の土塁も増強して権現台場と命名した。4月9日乙部村〔爾志郡乙
部町〕に上陸した新政府軍は、兵を三道に分けて旧幕府脱走軍の攻撃にかかった。一隊は中山峠→大野
→箱館、一隊は江差→上ノ国→稲穂峠→木古内→箱館、一隊は江差→上ノ国→江良→松前城奪回→箱館
へ進撃する作戦を立て、各所で激戦を展開した。旧幕府脱走軍も防戦したが、徐々に五稜郭を中心とす
る防御の輪が縮まり、4月29日以降、新政府軍は上磯・有川辺りまで進出、攻防が続けられた。激戦
の中、本多幸七郎率いる旧幕府伝習歩兵隊も四稜郭を足場として転戦するが、5月10日旧幕府脱走軍
は五稜郭へ撤退。5月11日新政府軍は箱館総攻撃を開始。11日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の
藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に
努めたが、新政府軍に福山藩兵が加わり、更に長州藩が四稜郭−五稜郭間に位置する権現台場を占領し
た為、退路を断たれることを恐れて五稜郭へ敗走した。5月17日五稜郭の榎本武揚以下は降伏し、翌
18日開城した。四稜郭は4つの稜堡のうち、北側2つの大砲を発砲したと云われ、新政府軍は北側か
ら攻めたとされる。1934年国史跡に指定され、現在は土塁、堀がよく残る。

【所感】長方形をベースに4つの稜堡を設けた形で、五稜郭や戸切地陣屋を違って虎口は1つで、入っ
て左へ折れる枡形の虎口になっている点がこの城塞の特徴です。よく見ると、シンメトリーではありま
せん。4つの稜堡の先端〔砲座〕へ向ってスロープが設けられています。稜堡の形を作っている土塁と
堀は、然程高くありませんが、全周がよく残っているので、見応えがあります。







枡形虎口の土塁



南東の稜堡




南東の稜堡の砲台



南東の稜堡から見た北東の稜堡



南東の稜堡から見た堀と土塁

 

四稜郭の石碑〔写真:左〕四稜郭の看板〔写真:右〕