美濃 曽根城
Sone castle

曽根城跡・華渓寺【岐阜県大垣市曽根町1丁目772−1】

【立地】平城

【市指定史跡】

【歴史】永禄年間(1558〜1570年)初期、稲葉伊予守良通入道一鉄の築城とされる
。一鉄は斎藤氏に仕え、1567年信長を経て、秀吉に仕えた。その子右京亮貞通に家督が
譲られると、1587年郡上八幡城4万石へ移封、1588年西尾豊後守光教が曽根城2万
石で入る。光教も、初め斉藤道三に仕え、織田信長を経て、豊臣秀吉の家臣となった。その
後、徳川家康の恩顧を受け、1600年「会津征伐」の時、大坂から曽根城へ戻った際に大
谷吉継から西軍で参戦するように誘われたが、従わずに関東へ下向した。「関ヶ原の戦い」
では岐阜城辺りの地理に詳しかった為、福島正則と共に岐阜城攻撃の先鋒を務めた。9月1
5日松平康長・水野勝成らと大垣城を攻撃し、和議に成功した。戦後、戦功によって1万石
の加増を受け、3万石となる。貞通は豊後臼杵城5万石へ移封、西尾光教は揖斐城3万石へ
移り、曽根城は廃城となる。1611年一鉄が没する。現在は華渓寺入口に曽根城跡の石碑
が立ち、石垣の遺構が見つかっている。稲葉一鉄の姪お安と斎藤利三との間に生まれた春日
局・徳川3代将軍家光の乳母は、曽根城が生誕地と云われているが、定かではない。


【所感】春日局や幕末漢詩人の梁川星巌など、エピソードの多い曽根城跡は揖斐川の支流平
野井川沿いに位置します。周りは田畑で静かな場所です。





曽根城跡の石碑と看板・華渓寺


 

曽根華渓寺之福水〔写真:左〕曽根城本丸跡の石碑と曽根城跡の看板・華渓寺〔写真:右〕