武蔵 菅谷城
Sugaya castle

 菅谷城跡・嵐山史跡の博物館【埼玉県比企郡嵐山町菅谷757】
畠山氏館跡・畠山重忠史跡公園【埼玉県深谷市畠山】
  大妻嵐山中学校・高等高校【埼玉県比企郡嵐山町菅谷558】

【立地】平城
【別称】菅谷館・重忠館

【国指定史跡】「比企城館跡群」菅谷館跡

【歴史】菅谷城の前身は、1187年以前に居住していた畠山重忠の居館とされる。畠山氏は平良文を
祖とする秩父氏の出で、重忠の父秩父庄司重能は大里郡川本村畠山〔深谷市畠山〕に居館〔畠山氏館〕
を構え、畠山氏を名乗ったと云う。1156・1160年「保元・平治の乱」以降、重能は平清盛に仕
え、重忠も源頼朝挙兵の際は平氏方に付いたが、1180年「石橋山の合戦」以降、頼朝に仕えた。1
205年幕府の実権を握った北条氏の謀略により、重忠は134騎の手勢と共に菅谷館を出て鎌倉へ向
かったが、途中、二俣川〔神奈川県横浜市旭区〕で鎌倉勢の討手に会い、鶴ヶ峰で討死した。重忠没後
、畠山家は重忠の妻と再婚した若松義弘が継いでいるが、菅谷館との関係は不明。1488年「須賀谷
原の戦い」の際、菅谷周辺で山内上杉氏と扇谷上杉氏が激突。馬数百匹が討たれ、戦死者700余人を
出す激戦地となったが、この合戦が初陣だった太田源六資康は菅谷館・平沢寺を本陣としていたらしい
。その後、小田原北条時代に北条方の小泉掃部助が城代として置かれた。城郭は後北条氏によって現在
の姿に築かれたと考えられており、本丸が重忠の居館跡に相当すると云う。現在、三ノ郭に博物館・駐
車場が造られ、曲輪、土塁、堀などが残る。

【所感】菅谷館跡は都幾川と槻川の合流点の北東に位置し、南に都幾川、北に国道254号線が走って
います。曲輪は北から三ノ郭と西ノ郭・中央に二ノ郭・南に本郭・南郭と並び、各曲輪が広大であるこ
とが特徴です。また、本郭北側には凸状に突き出た横矢枡形があり、二ノ郭の門跡〔畠山重忠公の銅像
が立つ〕前に位置します。更にその先には三ノ郭から二ノ郭へ向かって延びる半島状の部分があります
。もし、二ノ郭の門跡と三ノ郭の半島状の部分が木橋で繋がっていたとするなら、敵の進入を本郭の横
矢枡形から直接迎え撃つことが出来ます。整備されていないエリアもありますが、本郭辺りの土塁・堀
は圧巻です。ご案内頂いた儀一様に感謝致します。




本郭と北側の土塁

 

本郭西側の堀と土塁〔写真:左〕本郭北側の土塁〔写真:右〕



本郭北側・横矢枡形の土塁

 

南郭〔写真:左〕南郭から見た本郭〔写真:右〕

 

西ノ郭−三ノ郭間の堀〔写真:左〕博物館入口脇の三ノ郭土塁〔写真:右〕