駿河 駿府城
Sunpu castle

       駿府城公園【静岡県静岡市葵区駿府公園1】
静岡県警察本部・静岡県庁【静岡県静岡市葵区追手町9−6】
        静岡病院【静岡県静岡市葵区追手町10−93】
    静岡市民文化会館【静岡県静岡市葵区駿府町2−90】
        葵小学校【静岡県静岡市葵区城内町7−9】

【立地】平城
【別称】府中城・静岡城

【歴史】今川氏10代・約230年に亘って領国支配の本拠であった今川氏館が前身とされ
るが、築城年・場所・規模ともに不明である。今川義元の時代、1549年から11年間、
家康は今川の人質として過ごしている。1582年甲斐武田氏が滅亡すると、駿河国は徳川
家康の領国となり、1585年深溝松平家4代家忠に築城を命じ、翌1586年完成、家康
は浜松から駿府へ移った。1590年家康関東移封に伴い、秀吉の家臣中村一氏が14万5
000石で入る。1600年「関ヶ原の戦い」の際、一氏は東軍に属し、戦後、弟の一栄、
一氏の嫡男忠一と共に伯耆国米子へ移り、1601年内藤信成が4万石で入り、駿府藩〔府
中藩〕を立藩した。1606年信成は近江国長浜へ移る。1607年家康は将軍職を三男秀
忠に譲り、駿府城を隠居地とするべく天下普請で大改修を行ったが、炎上で天守、本丸御殿
を失い、翌1608年に再建された。1609年家康の十男で常陸国水戸藩主徳川頼宣が駿
河、遠江両国で50万石を得たが、家康の隠居地であった為、1616年家康死後に駿府へ
移った。1619年頼宣は紀伊国和歌山へ移り、一時廃藩となる。1624年2代将軍秀忠
の三男忠長が50万石で入り、再立藩した。忠長は鳥居成次、朝倉宣政らの補佐によって領
国経営を進めたが、1631年忠長の粗暴な行為を理由に除封され、甲府へ幽閉された。1
632年以降、幕府領となり、城代が置かれた。1635年火災で殆どの建物が焼失し、櫓
、門などは再建されたが、天守は再建されなかった。1989年二ノ丸巽櫓、1996年二
ノ丸東御門が復元されている。現在、本丸と二ノ丸は駿府城公園、三ノ丸は県庁・病院・市
民文化会館・裁判所・税務署などが建ち並び、石垣、門跡、水堀、水路などが残る。


【所感】建造物では二ノ丸の東御門と巽櫓が復元されていますが、現在、二ノ丸の坤櫓の復
元工事を行っています。この城跡の見所は各曲輪を囲む水堀と門跡の石垣ではないでしょう
か。二ノ丸東御門・巽櫓の入場受付に駿府城の絵地図がありますので、この地図を片手に水
堀の遺構を確認しながら回ると良いでしょう。三ノ丸堀の一辺は700〜800m程、二ノ
丸堀も一辺が400〜500m程あるので、全ての遺構を周ると、結構な運動になります。





徳川家康公立像・本丸



家康公が好きだった富士山・三保飛行場

 

本丸堀の一部

 

本丸堀と二ノ丸堀を結ぶ水路



三葉葵の家紋・本丸

 

駿府城天守閣跡・本丸〔写真:左〕馬場先御門跡・二ノ丸〔写真:右〕



北御門跡・ニノ丸




清水御門跡・二ノ丸



二ノ丸御門跡







復元 二重二階 二ノ丸巽櫓と二ノ丸堀

 

二ノ丸巽櫓1階内部〔写真:左〕二ノ丸巽櫓2階内部〔写真:右〕



復元 二ノ丸東御門の櫓門と多聞櫓











復元 二ノ丸東御門

 

復元 二ノ丸東御門の櫓門内部〔写真:左〕復元 二ノ丸東御門の多聞櫓内部〔写真:右〕









復元 二重二階 二ノ丸坤櫓と二ノ丸堀





南側の三ノ丸堀





三ノ丸大手御門跡



三ノ丸横内御門跡







三ノ丸四足御門の石垣



三ノ丸北側の草深御門跡






北側の三ノ丸堀




三ノ丸南西の櫓台

 

府中 弥次喜多像〔写真:左〕三ノ丸の水路〔写真:右〕