三河 高橋館
Takahashi yakata

 高橋館跡【愛知県豊田市御立町9丁目・10丁目・11丁目】
 鷲取神社【愛知県豊田市御立町10丁目1】
豊田東高校【愛知県豊田市御立町11丁目1】
成田自動車【愛知県豊田市御立町10丁目157】

【立地】平地

【歴史】鎌倉時代(1185年頃〜1333年)中期、高橋荘地頭代を務めた高橋氏の一族
高橋蔵人の館とされる。文治年間(1185〜1189)、遠江国相良荘出身の相良長綱が
地頭職小野成綱の代官として高橋判官を称し、高橋荘内西方衣郷那茶外〔現在の拳母町・八
幡町・十塚町付近〕に午寺館を構えたと云う。高橋判官長綱は後、兄頼綱の子頼之に職を譲
る。頼之は源頼朝にその武勇を称され、三河国高橋荘8000貫地の地頭目代となる。藤原
頼之・高橋左近将監と称し、高橋に居住。頼之の子頼季も源家に尽くし、弥三郎・左近将監
と称するが、1221年1月「宇治川の合戦」で討死した。孫に刑部左衛門・弥三郎左衛門
頼春と左近将監、孫三郎頼広がいる。頼春の子頼信は刑部左衛門・蔵人を称し、牛村〔野見
町〕に住む。頼信の子頼貞は蔵人と称し、牛村に居住し、後に大野村へ移る。同じく頼春の
子高義は、1285年11月霜月騒動の余波を受けて、下野国宇都宮貞綱の旗下に入る。場
所はハッキリしないが、鷲取神社の南西、豊田東高校の南方辺りとされ、現在は畑地に変わ
り、遺構は無い。

【所感】「御立町」は、古代小国家「衣の国」の東方に位置し、夷守の館〔御館=ミタチ〕
に由来すると云われています。また、鷲取神社は別名「ひだもりさん」と呼ばれ、「ひだも
り」→「ひなもり=夷守」のことで「夷守館」が在ったことを示します。1561年当地に
在った日景山宝徳寺、弥勒山牛寺などが織田勢の兵火で焼失したとされますが、現在の畑地
を見ていると、そのような歴史があったことは微塵も感じられません。




鷲取神社