出羽 高畠城
Takahata castle

高畠城跡・高畠小学校【山形県東置賜郡高畠町高畠3547】
  たかはたこども園【山形県東置賜郡高畠町高畠1077-1】

【立地】平城
【別称】鐘ヶ城・屋代城

【町指定史跡】

【歴史】承安年間(1171~1175年)、藤原秀衡の従兄弟樋瓜五郎李衡の築城とされ、城
壁が釣鐘状に回されていたことから鐘ヶ城・屋代城と呼ばれた。樋瓜氏の後、長井氏の家臣が治
めたが、1380年伊達宗遠が長井広房を征服し、政宗-氏宗-持宗-成宗まで伊達氏の居城と
なる。永禄年間(1558~1570年)~1590年は伊達政宗の臣小梁川貞範が領し、その
後、蒲生氏の領地、1598年上杉景勝の会津移封に伴い、米沢城主直江兼続の家臣春日右衛門
元忠が城代5000石で1608年まで居城とした。1664年10代城代半田善左衛門の時、
天領となり、米沢藩領地・代官支配を経て、再び米沢藩領地となった。1767年上野国小幡2
万石織田信浮〔織田信雄の裔〕が高畠へ転封、高畠城跡に陣屋を置いた。だが、所領が分散して
支配に不便であった為、1800年陸奥国信夫郡と交換して村山郡内にまとめて1万5000石
を領することになり、陣屋を村山郡の天童へ移した。1818年信浮が没し、信美が遺領を継い
だが、1831年藩の中枢を高畠から天童へ移し、高畠は代官陣屋を設置、役人を派遣して支配
するようになった。現在は高畠小学校に変わり、水堀が残る。


【所感】高畠小学校の西、たかはたこども園の北にくの字型の水堀が残っています。往時は広域
に廻らせていたと思われますが、現在はこの場所だけです。山形は水堀の遺構が多く残りますが
、高畠城跡もその一つです。


 

水堀跡〔写真:左〕高畠城堀跡の石碑〔写真:右〕