美濃 高須城
Takasu castle

      高須城跡【岐阜県海津市海津町高須町】
海津明誠高校海津校舎【岐阜県海津市海津町高須町11−1】
     高須小学校【岐阜県海津市海津町高須町337】
海津市歴史民族資料館【岐阜県海津市海津町萱野205−1】

【立地】平城
【別称】高須館・高須御館・高洲城・高須陣屋

【歴史】1522年、大橋源左衛門重一が築いたとされるが、1338年氏家中務丞重国が
高須郷に構えた居館を改修、再建したとも云われる。信重を経て、重長が1534年まで居
城。1556年まで高津玄蕃直幸が入り、その後、平野右京進長治、恒川久治郎信景、鷲巣
大膳大夫光康、秋山伯耆守信純、林市介長正、林宗兵衛正三、稲葉佐渡守正成らが入り、い
ずれも織田氏に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」の後は、日根野弥十郎信勝、加
藤伝左衛門重次が入り、1592年木十郎左衛門盛兼が1万石で入る。1600年「関ヶ
原の戦い」の際、盛兼は西軍に属したが、福島正則軍の山路久之丞、横井伊織時泰、徳永法
印寿昌らに攻められ、城を渡して退いた。戦後、徳永法印寿昌が2万石を加増を受け、5万
600石で高須藩を立藩。1611年寿昌が没し、1617年大坂の陣の戦功から、嫡男昌
重が5万3700石を得たが、1627年大坂城築城工事で懈怠があった為、所領没収から
幕府直轄領となった。1640年下総国関宿藩主小笠原貞信が2万2700余石で再立藩で
入り、現在に残る城下町の基礎を築いた。しかし、毎年のように起こる木曽三川の水害に悩
まされ、国替えを嘆願して越前国勝山へ移り、1691年、再び幕府直轄領になる。170
0年尾張藩主2代徳川光友の次男松平義行が尾張藩の支藩として3万石で入り、高須城を陣
屋に代えて治めた。1715年義行が没して義孝が継ぎ、次の義淳は尾張藩主8代徳川宗勝
となる。高須松平家はその後、義敏−義柄−義裕−勝当−義居−義和−義建と続き、185
0年義建の次男義恕は尾張藩主14代徳川慶勝に、五男義比は高須藩主を経て尾張藩主15
代徳川茂徳に、九男容保は会津若松藩主となる。義比の後、義男−義生で廃藩置県を迎える
。現在は学校、住宅に変わり、遺構は無い。

【所感】「関ヶ原の戦い」関連の城ということで「高須城跡」の看板が城跡公園〔三の丸〕
に設置されています。高須城の縄張り図は主水橋から50m東の「殿町ポケットパーク」に
立つ看板「高須城と城下町」に詳しく書かれています。この縄張り図によると本丸〔御館〕
は大江川に突き出したCP流通センター+県道8号線、二の丸は海津明誠高校・瑞応院辺り
、三の丸は城跡公園辺り、武家屋敷エリアには二本松が残る藩校日新堂跡・高須小学校が在
ります。遺構は有りませんが、曲輪を分ける堀跡〔水路〕がよく残っています。





本丸〔CP流通センター+県道8号線〕




二の丸・海津明誠高校



三の丸・城跡公園・高須城跡の看板



主水橋



武家屋敷エリア×三の丸間の堀跡



高須城と城下町の看板・殿町ポケットパーク



藩校 日新堂跡・二本松・武家屋敷エリア・高須小学校