大和 高取城
Takatori castle

高取城跡【奈良県高市郡高取町高取】
八幡神社【奈良県高市郡高取町高取83】
 宗泉寺【奈良県高市郡高取町上子島549−1】

【立地】山城
【別称】芙蓉城・鷹取城・高取山城

【国指定史跡】高取城跡

【歴史】高取山〔標高585m、比高390m〕に築かれた日本三大山城の一である。13
32年護良親王の挙兵に応じた越智邦澄の築城とされるが、確証は無い。1437〜143
8年「大和永享の乱」において幕府軍に対抗して越智維通が高取城に立て籠った伝承がある
。1518年「高取を越智より攻取、城主子嶋掃部没落す」とあり、この時期、越智方の子
嶋氏が城主であった。越智氏は貝吹山城を本拠としたが、越智家栄の後、伊予守家益系は貝
吹山城、民部少輔系は高取城を本城とするようになったと云う。1467〜1477年「応
仁の乱」では畠山氏に仕えて筒井氏と共闘関係になり、1532年証如率いる一向一揆が大
和へ侵攻、高取城を包囲するが、筒井氏が背後から攻撃を仕掛け、一揆勢は敗走した。その
後、越智氏は筒井氏の配下となり、1568年織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際、筒
井氏と共に信長の軍門に降った。1580年信長の一国破城政策により高取城も廃城となっ
たが、1582年「本能寺の変」で信長が没し、1583年筒井順慶によって越智氏は滅亡
、1584年2月筒井順慶は高取城を詰城として復興を始めた。8月順慶は病没、1585
年定次〔順慶の養嗣子〕は伊賀上野へ移され、豊臣秀長が大和国100万石で大和郡山城へ
入った。
高取城は脇坂安治→本多利久が2万5000石が入り、1589年秀長の命で本格
的な工事が始まった。1591年豊臣秀長が没し、1595年豊臣秀保〔秀長の子〕が亡く
なると、増田長盛が大和郡山城に入るが、本多氏は継続して高取城を預かった。1600年
「関ヶ原の戦い」では本多俊政〔利久の子〕が会津へ遠征中、高取城を守る家臣らは三成軍
の攻撃に耐え忍び、俊政は大和国高市郡内2万5000石で高取藩を立藩。1608年俊政
没後、政武が遺領を継ぎ、1615年「大坂夏の陣」で戦功を挙げるが、1637年嗣子無
く病没し、一時廃藩となる。桑山一玄〔大和国新庄藩主〕、小出吉親〔丹波国園部藩主〕ら
が城番を務め、1640年植村家政が2万5000石で入り、高取藩を再立藩。1650年
家政が没し、2代家貞は弟政春に3000石を分与し、1687年3代家言は弟政明に10
00石、正将に500石を分与し、2万500石となった。1696年藩主4代家敬の時、
1695年大和国松山藩主織田信休が丹波国柏原へ転封となり、その旧領が収公され、幕命
によって再検地が行なわれた。1731年5代家包−1738年6代家道−1767年7代
家久と続き、1738年に大和国内の幕府領を預かり、1779年8代家利〔奏者番〕−1
785年9代家長の治世には預かり地が6万7000石に及んだ。家長は第11代将軍家斉
の信頼が篤く、1799年寺社奉行→西の丸と本丸の若年寄を経て、1826年老中に昇進
、大和国高市郡などで4500石加増を受けて2万5000に復した。1828年10代家
教の時代は藩学が振興し、儒学者谷三山を招聘して尊王論を説いた。1848年11代家貴
−1853年12代家興−1853年13代家保の三代は他家から迎えた養子で、1863
年8月家保は天誅組那須信吾らに兵糧や武器の提供を約束したが、京都守護職の賊徒追討令
によって約束を反故にした為、天誅組の来襲を撃退、後に五条代官支配地を預かった。18
64年大坂加番となり、1867年京都市中の巡邏を命ぜられた。1868年1月「鳥羽伏
見の戦い」の際は禁裏唐門の警衛、2月芝村藩主織田長易とともに大和国内の代官支配地の
取り締まりを新政府から命ぜられた。1868年14代家壺が藩主となり、1871年廃藩
置県を迎えた。1953年国指定史跡、2006年日本100名城に選定される。現在は山
林となり、曲輪、石垣、堀切、水堀、井戸跡、移築門などが残る。

【所感】主要エリアから四方に展開するルート脇に曲輪・石垣・堀切・井戸跡などの遺構が
散在する高取城跡。私は晴天日に限り、5回に分けて撮影しました。本丸・二の丸の石垣は
誰もが知る素晴らしいものが、私が主眼を置いた遺構は虎口と井戸跡と堀切です。北麓の黒
門から始まる大手道には幾つもの門が在り、二の門・矢場門・松の門・宇陀門・千早門など
は何れも枡形虎口で、二の丸大手門から天守郭に至る経路も枡形が多く用いられ、右へ左へ
振り回される防御に優れたな縄張です。城内を歩いていると円形・方形の井戸跡を見掛けま
すが、地下水脈を狙って掘られたものではなく、保水性の高い土から染み出した水を集める
枡のようなものと感じます。現在も井戸の中を覗くと水面が見えるものが多く、これだけ容
易に水が手に入るなら侍屋敷が多く並ぶ理由も分かります。続いて堀切ですが、弥勒堀切や
岡口堀切のように細い尾根を石垣で固めたものもあれば、吉野口郭以南で見られる土の堀切
もあって、全ての堀切を写真に収めるために2.5kmの道を歩くことになりますが、それでも
撮りたくなる遺構です。




黒門跡・大手道



島流社・大手道





別所郭・宗泉寺





別所郭



大手道





史蹟 高取城阯碑・大手道





七曲り・大手道







大手道



井戸跡・大手道





大手道



一升坂・大手道



本丸と岩屋不動〔岩屋郭〕の分岐点・大手道











岩屋郭



岩屋不動・岩屋郭







大手道





猿石



















岡口堀切への道



岡口堀切



水堀・二の門横




水堀横の井戸跡






二の門跡・大手道



三の門跡・大手道



三の門櫓台



侍屋敷入口



大手道



集水枡・三の門跡−矢場門跡間の北側の谷





国見櫓跡



矢場門跡・大手道



松ノ門跡・大手道



松の丸



松の丸北端の武器櫓台



大手道と宇陀櫓台





宇陀門跡・大手道



普請小屋跡・大手道





千早門跡・大手道







城代屋敷跡・三の丸







八幡郭・八幡神社



八幡口



八幡口『史跡 高取城跡』看板裏の井戸跡









八幡口登城道







壺阪口門跡



壺阪口郭



壺阪口中門跡へ上がる階段







壺阪口中門跡





火薬櫓跡



吉川屋敷跡



吉川屋敷跡西端の石垣



吉川屋敷跡南端の多聞櫓台



火の見櫓台





三の丸−二の丸間の道









大手門跡・二の丸











十三間櫓門跡・二の丸



二の丸御殿跡・二の丸上段



本丸と二の丸を仕切る冠木門跡





十五間櫓門跡



太鼓櫓跡・本丸馬出



本丸馬出





新櫓台と裏門跡〔埋門跡〕



裏門跡・本丸馬出



石火矢櫓下の門跡



石火矢櫓台



石火矢櫓上の門跡





本丸



虎口上に建つ十方櫓跡・本丸



辰巳櫓跡・本丸腰郭



小天守台から見た未申櫓跡・本丸腰郭



本丸腰郭から見た小天守台





天守台



具足櫓台













本丸枡形虎口



天守郭から見た天守台



天守入口・穴蔵・天守郭



天守台前の井戸跡・天守郭







天守郭





烟硝櫓台



搦手門跡



七ツ井戸跡



井戸郭_吉野口郭_赤土郭_弥勒堀切方面入口・大手門跡前





井戸郭上段の井戸跡@





井戸郭下段の井戸跡A



井戸郭から見た半左衛門櫓台



井戸櫓台



半左衛門櫓台前の侍屋敷跡



中井戸跡〔集水枡〕



中井戸跡北側の石垣



喰違門跡・搦手道ルート





吉野口郭の井戸跡と集水枡



鬼門櫓台・吉野口郭





吉野口郭最上段・杉林・竹林



吉野口郭北端の石垣



吉野口郭北側の堀切



吉野口郭南側の腰巻石垣・搦手道ルート



小姓櫓跡・搦手道ルート





吉野口門跡・搦手道ルート



登り石垣・吉野口門跡



本丸南側の大堀切







本丸南側の大堀切→堀切@へ向かう崩落した道



堀切@



堀切A〔二枚橋〕・赤土郭の北





赤土郭と東端の土塁





赤土郭南西尾根の土橋+堀切





弥勒堀切



移築 城門(中仕切門か)・永明寺



移築 二の門・子嶋寺