但馬 竹田城
Takeda castle

         竹田城跡【兵庫県丹朝来市和田山町竹田】
         山城の郷【兵庫県丹朝来市和田山町殿13−1】
わだやま観光案内所・竹田駅【兵庫県丹朝来市和田山町竹田225−2】

【立地】山城
【別称】虎臥城・安井ノ城

【国指定史跡】竹田城跡

【歴史】1443年頃、但馬守護の山名持豊が丹波の細川氏・播磨の赤松氏・出雲の毛利氏
に備え、古城山〔標高353m、比高255m〕に築いた山城である。1431年着工、1
443年竣工。当時、出石の子盗山を本拠としていた持豊は、家臣の太田垣光景を初代城主
として入れた。1465年2代城主景近の時、応仁・文明の乱〔1467〜1477年〕が
起こり、山名氏に従って京都に出陣し、城は弟の宗近が守るが、細川氏の武将内藤孫四郎に
狙われ、宗近は夜久野に出撃してこれを破った。その後、1479年3代宗朝−1492年
4代俊朝−1521年5代宗寿−1538年6代朝延−1570年7代輝延と続く。156
9年信長の命を受けて羽柴秀吉軍が但馬へ侵攻し、竹田城落城。1573年吉川元春が伯耆
から因幡へ入国し、太田垣土佐守輝延・八木但馬守豊信・垣屋駿河守豊続・山名祐豊・垣屋
光成・田結庄是義らが毛利方へ寝返った。1575年5月〜6月毛利勢の但馬侵攻、10月
丹波国黒井城主荻野直正が太田垣氏の竹田城・山名祐豊の有子城の急襲する。1577年1
0月羽柴秀吉は竹田城を落して羽柴秀長を城代として入れ、城内を整備、翌1578年6月
正式に羽柴秀長を城主とした。1580年毛利勢より先に織田勢が但馬を制圧し、秀吉は竹
田城主に桑山修理大夫重晴を任命したが、1585年和歌山へ移封となり、四国征伐などの
戦功から龍野城主赤松政秀の子赤松弥三郎広秀を入れた。広秀の代で総石垣造りの城になっ
たとされ、秀吉の1587年「九州征伐」・1592年「文禄の役」・1594年伏見城普
請などに従った。しかし、1600年「関ヶ原の戦い」では西軍に属し、「鳥取城攻め」の
後に自害、竹田城は廃城となった。1943年国指定史跡となり、1971〜1980年石
垣の復元工事が行われ、2006年日本100名城に選定される。現在は曲輪、石垣、井戸
跡、竪堀などが残る。『天空の城』と呼ばれ、南東に位置する『立雲峡』が雲海の撮影ポイ
ントになっている。


【所感】竹田城跡へ行く方法は、@車の場合、『山城の郷』駐車場→入口まで徒歩2.2キロ
:所要時間30〜40分、A『天空バス・タクシー乗り場』→入口まで1キロ:所要時間1
5分、東麓からの登山道は『駅裏登山道』『表米神社登山道』、車道の『南登山道』の3つ
があります。最もスタート地点に近いAでも、城内も含めて2.2キロ歩くので、歩き易い靴
で臨むことが必要です。入城時間は季節によって異なり、春:AM8時・夏:AM6時・秋
:AM4時・冬:AM10時となっていますので、日程は公式ホームページが確認下さい。
私はAM8時頃、JR竹田駅からタクシーで上り、帰りもタクシーを呼んで下山しました。






城跡入口までの道



竹田城跡観覧料受付処・城跡入口







大手坂



大手坂から見た二の丸







大手枡形虎口





北千畳





三の丸枡形虎口



三の丸〔御溜殿〕



井戸跡へ下りる虎口(立ち入り禁止)・三の丸



三の丸西端の太鼓櫓台



弐の門跡







喰い違い虎口





二の丸虎口





二の丸〔平御殿〕



本丸へ向かう階段





本丸〔高見殿〕



本丸から平御殿に下りる階段(立ち入り禁止)



天守台・本丸



二の丸〔平御殿〕



東の丸



奥殿



花屋敷〔花御殿〕







喰い違い虎口



南の丸枡形虎口



南二の丸



南二の丸→南千畳への虎口



南二の丸辺りから見た天守台



城下の景色









正門跡





南千畳







南二の丸と南千畳





南千畳南側の虎口





南千畳南面の石垣







駐車場へ



落ちない岩



バス+タクシー乗り場