丹波 亀山城
Kameyama castle

丹波亀山城跡【京都府亀岡市荒塚町内堀・北古世】

【立地】丘城
【別称】亀岡城・亀宝城

【歴史】1575年明智光秀は織田信長より丹波平定を命ぜられ、1577~1579年亀
山城を築いて丹波平定の拠点とした。築城を急いだ為、近隣の寺社建物、礎石類を資材とし
て利用し、現在の本丸・二の丸の規模に天守も有ったと云う。1582年光秀は亀山城を出
発して『本能寺の変』を起こし、没後、1583~1589年羽柴秀勝、1595年まで小
早川秀秋の支配地となり、三重天守→五重天守に改築した。続いて、豊臣政権の五奉行前田
玄以が5万石で入り、1600年『関ヶ原の戦い』で大坂城に居ながら家康に石田方の動き
を密かに伝えていた為、玄以は本領を安堵された。1602年玄以没後、遺領を継いだ次男
茂勝は丹波国八上藩5万石へ移封、亀山は天領となった。1609年下総国山崎から岡部長
盛が3万2000石で入封し、大堰川の治水用石堤を築く。2000石の加増を受け、16
21年丹波国福知山へ転封。三河国西尾から大給松平成重が2万2200石で入封、163
3年忠昭が襲封、翌1634年豊後国亀川へ移封となる。近江国膳所から菅沼定芳が4万1
100石で入封。1643年定昭が襲封、弟定実に2000石、定賞に1400石を分与し
、3万8000石を領有したが、1647年無嗣断絶で除封となった。翌1648年弟の定
実が7000石で旗本として家名再興が許される。同年、遠江国掛川から3万8000石で
藤井松平忠晴〔奏者番〕が入封-1667年忠昭が襲封-1683年忠周〔若年寄〕-16
86年武蔵国岩槻に転封となり、備中国庭瀬から5万石で久世重之が入封-1697年三河
国吉田へ転封となり、美濃国郡上から4万7000石で正岑〔若年寄〕が入封-1702年
常陸国下館へ転封となり、遠江国浜松から5万石で青山忠重が入封-1722年青山俊春-
1730年青山忠朝〔寺社奉行〕と続き、1748年丹波国篠山へ転封、入れ替わりで篠山
から形原松平信岑が5万石で入封-1763年松平信直-1781年信道〔奏者番・寺社奉
行〕-1791年信彰-1802年養子信志-1816年信豪-1843年信義〔奏者番・
寺社奉行・大坂城代・老中〕-1866年信正と続き、1869年版籍奉還で知藩事となり
、伊勢国亀山藩との混同を避けるために亀岡藩と改称した。1919年城跡は宗教法人大本
の所有地となり、現在は本丸石垣と内堀の一部、外堀、移築門が残る。

【所感】この城跡は2回訪ねており、1回目は曇→雨になった為、下見のような形で済ませ
、2回目でしっかり撮影しました。亀山城跡が宗教法人大本〔おおもと〕の敷地ということ
で、少し緊張しながら受付に向いましたが、何事も無く普通に入場料を払って回ることが出
来ました。本丸石垣は下から13段目までは往時の状態、そこから上は積み足したようです
。残念ながら本丸の中は神域に当たるため入ることは出来ませんが、外からでも十分満足出
来ます。城跡の北側に外堀〔南郷池〕や明智光秀公像、南側に大手門跡と言われる形原神社
、城と城下を囲む惣構の堀跡と土塁の一部、他にも移築された城門が幾つか有り、全てを満
足するにはまだまだ時間が掛かりそうです。




明智光秀公像・南郷公園



南郷池・外堀・南郷公園



明智光秀公築城亀山城趾の石碑・南郷公園



大本(おおもと)入口







城跡に埋もれていた石を使って積み上げた石垣・大本



万祥池・内堀の一部・大本



一の門跡・大本



井戸跡・大本







本丸石垣・大本



階段を上がった左奥〔月宮宝座〕が天守跡・立ち入り禁止・大本

 

大本・天恩郷(丹波・亀山城址)の看板〔写真:左〕丹波亀山城保津門跡の看板〔写真:右〕

 

丹波亀山城古世門跡の看板〔写真:左〕外厩跡の看板〔写真:右〕