三河 寺部城
Terabe castle

 寺部城跡・寺部陣屋跡【愛知県豊田市寺部町1丁目】
       守綱神社【愛知県豊田市寺部町1丁目36】
        守綱寺【愛知県豊田市寺部町2丁目27】
        随応院【愛知県豊田市寺部町4丁目31】
拳母城跡・豊田市美術館【愛知県豊田市小坂本町8丁目5−1】
  車坂合戦場跡の看板【愛知県豊田市水間町5丁目】

【立地】平城
【別称】寺部陣屋

【歴史】文明年間(1469〜1487年)、鈴木下野守重時の築城とされる。1493年
重時は上野城主阿部氏・拳母城主中条氏・八草城主那須氏・伊保城主三宅氏らと連合して松
平宗家4代親忠を攻めたが、「井田野の戦い」に敗れ、服属した。重明を経て、重教は、1
533年岡崎城主松平宗家7代清康を攻め、1545年松平宗家8代広忠の来攻を防ぎ、そ
の後、今川氏に属した。1558年重時が織田信長方へ寝返ると、松平元康は今川義元より
寺部城攻めを命ぜられ、初陣を火攻めで落城。続いて広瀬城・拳母城・梅坪城・伊保城を落
とし、戦功により三河国山中300貫の地を与えられたと云う。1566年佐久間信盛の攻
撃で落城、1567年重教は駿府で討死、1568年佐久間信盛の与力余語久兵衛勝久が入
った。1590年岡崎城主田中吉政の管理下となる。1613年渡辺半蔵守綱〔1542〜
1620年〕が1万4000石で寺部城跡地に陣屋を構える。守綱は碧海郡浦辺村〔岡崎市
占部城〕に生まれ、槍の名手で「槍半蔵」と称された徳川十六神将の1人である。1610
年尾張初代藩主徳川義直の附家老となり、1614〜1615年「大坂の陣」で徳川義直の
初陣を補佐し、1620年没した。その後、重綱−治綱−宣綱−定綱−直綱−綱保−綱通−
綱光−規綱−寧綱−綱倫−綱聡と続き、明治を迎える。現在は公園に変わり、土塁と陣屋の
礎石などが残る。

【所感】寺部集落の北西、守綱神社の裏手に寺部城跡・寺部陣屋跡が在ります。寺部城址の
森公園と称され、入口の土塁上に寺部城址の石碑、跡地の地面には土蔵、茶席、書院、仏間
、母屋と書かれた石碑が埋まり、位置と広さを分かり易くしています。ここから東方300
mに渡辺山守綱寺が在ります。本堂裏手に渡辺家初代守綱から13代綱聡までの墓が並んで
います。





寺部城趾碑



土塁



寺部城址の看板



寺部城跡・寺部陣屋跡





寺部陣屋の井戸跡





寺部陣屋の土蔵跡



城跡西端の土塁



守綱神社遠景



守綱神社



守綱神社本殿・櫓跡



徳川家康寺部城攻め・車坂合戦場跡の看板



移築復元 寺部陣屋の書院・茶室「又日庵」・豊田市美術館

  

  

  

  

  

守綱寺・渡辺家墓所

  

随応院・渡辺家墓所