志摩 鳥羽城
Toba castle

    鳥羽城跡【三重県鳥羽市鳥羽3丁目】
   鳥羽市役所【三重県鳥羽市鳥羽3丁目1−1】
   鳥羽水族館【三重県鳥羽市鳥羽3丁目3−6】
  旧鳥羽小学校【三重県鳥羽市鳥羽3丁目1−61】
  旧鳥羽幼稚園【三重県鳥羽市鳥羽3丁目8−30】
 ミキモト真珠島【三重県鳥羽市鳥羽1丁目7−1】
鳥羽市民文化会館【三重県鳥羽市鳥羽3丁目8−3】
百五銀行鳥羽支店【三重県鳥羽市鳥羽3丁目17−27】

【立地】平山城〔海城〕
【別称】錦城・二色城

【県指定史跡】


【歴史】1594年九鬼嘉隆の築城とされる。保元年間(1156〜1159年)以降、橘
氏の居館が在った場所で、永正年間(1504〜1521年)、伊勢国司北畠材親に攻略さ
れ、橘次郎宗忠は志摩二郡を得て、居城を岩崎山〔取手山〕へ移した。1560年頃、波切
城主九鬼定隆の次男嘉隆は信長の力を借り、志摩の勢力拡大を図る。1568年浦、安楽島
、小浜の城を落とし、1570年答志、和具、的矢、越賀などの豪族を支配下に入れた。嘉
隆は水軍で名を馳せ、1576年「石山合戦」では世界初の鉄甲艦で参戦、信長没後は秀吉
に属し、1587年「九州征伐」、1590年「小田原征伐」などで活躍した。1586年
鳥羽城は三方を海に囲まれた前島〔観音山〕を城地とし、三河国幡豆の石材を用いて159
4年8月に完成した。1597年嘉隆は次男守隆に家督を譲るが、1600年「関ヶ原の戦
い」の際、嘉隆は西軍、守隆は東軍に属して戦った。戦後、西軍の嘉隆は答志島和具に逃れ
るが、息子守隆の助命嘆願空しく切腹。守隆は鳥羽藩主5万5000石を得、1614〜1
615年「大坂の陣」の戦功で1000石の加増を受ける。1632年守隆没後、家督を継
いだ五男久隆は摂津国三田藩3万6000石へ、三男隆季は2万石で丹波国綾部へ移り、海
を離れた九鬼氏は水軍を失った。1633年内藤忠重が3万5230石で入封し、鳥羽城を
近世城郭に改修した。忠政を経て忠勝は、1680年丹後国宮津藩主永井尚長を斬殺した為
、切腹、御家断絶となった。その後、1681年土井利益7万石、1691年大給松平乗邑
6万石、1710年板倉重治5万石、1717年戸田松平光慈7万石、1725年稲垣昭賢
3万石で入り、昭央−長以−長続−長剛−長明−長行と続き、長敬で明治を迎える。現在は
旧小学校、旧幼稚園、公園、市役所、線路、道路、水族館に変わり、曲輪、石垣が残る。

【所感】鳥羽市役所・鳥羽市民文化会館の裏山が鳥羽城跡、駐車場も鳥羽市民文化会館裏に
有ります。城の殆どが破壊され、現在は家老屋敷跡〔旧鳥羽幼稚園〕・本丸の一部に石垣が
残るのみで、曲輪の段差を感じれる程度になってしまいました。曲輪からの海の眺めは良く
、東麓を走っている近鉄は撮り鉄にも最適な場所です。鳥羽水族館、ミキモト真珠島の横に
在って、ここ鳥羽城跡だけが展望台程度にしか利用されていないことが残念です。県指定史
跡になっているので、せめて門や櫓の石柱ぐらいは立てて欲しいですね。






本丸南側の旧鳥羽小学校



大井戸跡・本丸



本丸御殿跡



天守跡・本丸






本丸南面の石垣







本丸西面の石垣





本丸北西角の石垣



本丸北東角の石垣




本丸−城山公園間の尾根道



城山公園上段



城山公園上段−下段間の階段



城山公園下段



大山祇神社





家老日向主殿屋敷跡の石垣・旧鳥羽幼稚園



二の丸跡



三の丸広場



大手水門跡・二の丸・鳥羽水族館・国道42号線沿い



唐人門跡



相橋口門跡



本町門跡



横町口門跡



藤口門跡・百五銀行鳥羽支店