尾張 常滑城
Tokoname castle

     常滑城跡【愛知県常滑市山方町1丁目・市場町5丁目】
 天理教常滑分教会【愛知県常滑市山方町1丁目50】
INAX常滑東工場【愛知県常滑市奥栄町1丁目47】
      正法寺【愛知県常滑市市場町4丁目64】
      総心寺【愛知県常滑市社辺64】

【立地】丘城

【市指定史跡】

【歴史】緒川城主水野下野守清忠の三男水野監物忠綱〔〜1529年〕に始まり、2代某(監物・山城
守・大和守)−3代監物守隆の居城となった。本家水野忠政の時代は3代守隆も松平氏と結んでいたが
、1543年忠政が没し、次の信元に代になると、守隆の妻が水野信元の娘であったことから、常滑水
野家も織田に属した。1582年「本能寺の変」で明智光秀に与したことで常滑城を退き、京都の嵯峨
へ隠棲。その後、織田信雄の家臣で星崎城主岡田長門守重孝の持城となるが、1584年秀吉との内通
疑惑で信雄に殺害され、岡田一党も緒川・刈谷城の水野忠重・勝成父子によって鎮圧、常滑は水野忠重
の指揮下となった。1584年「小牧、長久手の戦い」の功により、高木九郎広正の居城となる。15
90年「小田原征伐」の年、信雄は秀吉の転封命令に叛いて尾張を追われ、常滑城も破却されたと推定
される。1598年水野守隆は京都で没し、常滑に残された妻は剃髪して総心尼となり、1615年総
心寺を建立した。守隆の子保雅は、1584年「小牧、長久手の戦い」で討死している。現在は住宅な
どに変わり、正法寺南隣りの公園、天理教常滑分教会入口の2ヶ所に城址碑が立つ。


【所感】往時はINAX常滑東工場から市場町5丁目辺りまで、西の伊勢湾に突き出た尾根山が在り、
山方町1丁目辺りを中心に6つの曲輪、曲輪間に堀切が設けられていたようです。尾根の一部は市場町
5丁目の正法寺辺りに在り、南隣りの公園に常滑城跡の石碑と歴史看板が立っています。城跡の中心と
される山方町1丁目の「天理教常滑分教会」入口の冠木門横にも、小さな石碑が在ります。この小さな
石碑、近所の人に聞いて歩いて探してやっと見付けました。この周辺は道が大変細いので、何処かに車
を止めて歩くことになります。





常滑城跡の石碑と看板


 

常滑城址の石碑・天理教常滑分教会入口〔写真:左〕総心尼の墓・総心寺〔写真:右〕