日向 都於郡城
Tonokori castle

 都於郡城跡【宮崎県西都市鹿野田・都於郡町】
  横山産業【宮崎県西都市鹿野田6278-1】
都於郡保育所【宮崎県西都市鹿野田6101】

【立地】平山城
【別称】浮舟城

【国指定史跡】都於郡城跡

【歴史】築城者は伊東祐持、築城年は1337年、1349年など諸説あり、定まらない。伊東氏は源
頼朝の臣工藤祐経の子孫であり、1190年祐経は日向国の地頭職に任ぜられたが、1193年冨士の
裾野で曽我兄弟に討たれて亡くなった。祐経の子祐時が遺領を継ぎ、祐光-祐宗-貞祐と代々伊豆国に
住み、日向には一族の代官を置いて治めた。貞祐の子祐持の時、足利尊氏に仕えて功を上げ、新たに日
向国都於郡三百町の地を得た。1337年伊豆国から日向国へ下り、都於郡城を居城とし、祐持の子祐
重の代で更に城を改築したと伝わる。祐重の後、祐安-祐玄-祐武-祐尭-祐国-尹祐と続くが、しば
しば火災に見舞われ、1504年3月失火により累代の史籍・器物などを焼失した。1536年尹祐没
後、祐清〔後の義祐〕が継ぎ、佐土原城、宮崎城にも住んだ。都於郡城は義祐の子義益が入り、156
9年義益没後は義賢が継いだ。1577年義祐は島津氏の攻撃で豊後へ逃れ、島津氏の将鎌田政親が入
る。1587年豊臣秀吉が島津氏を征伐して九州を統一してからは、都於郡は佐土原藩の領地となり、
1615年一国一城令で廃城となる。2000年国史跡に指定され、現在は曲輪、土塁、堀切が残る。

【所感】県道18号線沿い都於郡保育所近くの丁字路の上を見ると、「都於郡城跡」の看板があり、他
にも「国指定史跡都於郡城跡」の標柱や「都於郡城跡」「伊藤満所(マンショ)生誕の地」の看板が立
っています。この丁字路から500m程西進すると、左手に都於郡城跡用の大きな駐車場が在ります。
横山産業の隣りです。この駐車場に都於郡城跡までの道のり・簡単な縄張図が描かれた看板があり、道
を確認して城跡まで行きます。駐車出来る場所はココだけではなく、本丸や二の丸、三の丸辺りにも駐
車スペースが在ります。各曲輪の切岸は急勾配、曲輪間の堀切も深く、形こそ違いますが、まるで皿の
上にプリンが並らんでいるようです。このような独立性の強い曲輪は、いまだ嘗て見たことがありませ
ん。石垣も建物も無い「土の城」ですが、実際に訪ねてみると、誰もが驚く遺構だと思います。





奥ノ城




奥ノ城南端の土塁

 

奥ノ城の虎口






奥ノ城-本丸間の掘切





本丸から見た奥ノ城-本丸間の掘切



本丸から見た奥ノ城

 

本丸東口の階段

 

都於郡城跡の標柱・本丸〔写真:左〕遣欧少年使節 伊藤満所(マンショ)像・本丸〔写真:右〕



本丸北東端の土塁



本丸東端の土塁



本丸の南エリア



二の丸から見た本丸



本丸-二の丸間の堀切





二の丸東端の土塁



三の丸から見た二の丸



三の丸-二の丸間の堀切



二の丸から見た三の丸



三の丸



三の丸東端の土塁



三の丸西端の切岸



三の丸南側の腰曲輪



西ノ丸-三の丸間の堀切



西ノ丸



西ノ丸東側の曲輪



西ノ丸南側の曲輪