因幡 鳥取城
Tottori castle

   鳥取城跡【鳥取県鳥取市東町・円護寺・百谷・栗谷町】
鳥取県立博物館【鳥取県鳥取市東町2丁目124】
鳥取西高等学校【鳥取県鳥取市東町2丁目112】
    仁風閣【鳥取県鳥取市東町2丁目121】
 鳥取市武道館【鳥取県鳥取市東町1丁目326】

【立地】山城
【別称】久松山城・久松城

【国指定史跡】鳥取城跡附太閤ヶ平

【歴史】1545年因幡守護職山名誠通が天神山城の出城として久松山〔標高263m〕山頂に築いた
砦城に始まり、縄張りは家臣武田豊前守の老臣田原某によるものと云う。誠通は同族但馬守護職山名祐
豊との争いが続いていたが、1548年但馬山名勢の急襲により誠通は討死、誠通の老臣たちは遺児源
七郎・弥次郎を守って山名祐豊と和睦し、天神山城に祐豊の弟豊定を迎えて守護代とした。家老たちが
輪番で護っていた鳥取城は、武田豊前守が定番を願い出て城に入った。武田氏は近隣の城主と関係を密
にし、徐々に勢力を拡大。鳥取城を出城から城レベルにまで改造し、山麓に水堀、櫓も築いた。豊前守
没後、その子高信が継承。1563年武田高信は弟又三郎を鵯尾城〔鳥取県玉津〕に配し、三上兵庫頭
豊範の二上山城〔鳥取県岩美郡岩美町〕の下へ武田源五郎を送って盟約を結び、天神山城の山名氏と対
戦。山名勢の中村伊豆守は鳥取城の一角に進入するが、武田勢は山上から反撃、中村氏は討死した。以
後も武田氏×山名氏の抗争は繰り返されるが、1571年8月高信が但馬の阿勢井〔兵庫県美方郡新温
泉町〕へ出陣した際、敗れて嫡男又太郎・次男与十郎ら多くの兵を失った。1572年8月山名豊国〔
豊定の子〕を援助しようと尼子氏の遺臣山中鹿之介幸盛が立ち上がり、高信との戦いで勝利。高信は豊
国に起請文を出し、鳥取城を開城、鵯尾城へ移り、1573年山名豊国は鳥取城へ移住、因幡の本城と
した。天正年間(1573~1593年)に入ると、毛利氏の勢力が東進し、山名豊国も麾下に入るが
、1577年10月羽柴秀吉が姫路城に入って毛利氏と相対することになる。秀吉は12月には播磨、
1578年2月別所長治の三木城を攻略し、1579年6月伯耆国羽衣石城の南条氏を味方に付けた。
1580年6月6日秀吉は鳥取城攻略に出立。先ず、若桜城を落として木村重賢を城将として置き、次
いで鹿野城を攻めて鳥取城の人質を押さえ、毛利氏の武将を追放して亀井茲矩を城番とした。秀吉は山
名豊国に「降伏すれば因幡一国を給与しよう」と申し入れ、9月21日家老たち主戦派の意見を抑えて
降伏したが、返答の遅延を責め、わずか法美・邑美の二郡を与えるに留まった。家老森下道誉・中村春
続らは山名豊国の態度・処置を遺憾として豊国を城から追放し、吉川元春に城番の派遣を請う。元春は
石見福光城主吉川経安の嫡男経家を鳥取城番に任じた。秀吉は鳥取城攻め第2弾の手始めとして、商船
数隻を若狭から因幡へ回し、穀物を数倍の値段で買い占め、一部鹿野城に貯え、残りは持ち帰らせた。
1581年2月26日吉川経家は福光城を発って、3月18日に鳥取城へ入った。そして、千代川河口
と本城との間に丸山城を築き、更に鳥取城-丸山城間の雁金城に塩冶周防守を駐在させた。6月25日
秀吉は2万の大軍を率いて姫路を出立、7月12日鳥取城を完全包囲。秀吉は帝釈山〔太閤ヶ平〕に本
陣を置き、軍を右翼軍・左翼軍・平地軍の3つに分けた。一方、吉川経家側は鳥取城の本丸に陣を構え
、二の丸・三の丸に森下氏・中村氏、雁金城に塩冶氏、丸山城に山県氏らが布陣、沖に軍船を配して毛
利からの糧食補給・援軍に備えた。しかし、秀吉が布いた鉄壁の包囲網は毛利勢を寄せ付けず、日を追
う毎に包囲網は狭められて行った。次第に城内の兵糧は欠乏し、人まで服す有様となった為、経家は秀
吉の勧告に応じて開城、10月25日久松山山麓の真教寺で自害した。論功行賞の末、宮部継潤に鳥取
城5万石、亀井茲矩に鹿野城1万3000石、木下備中守重賢に鬼ヶ城〔若桜〕2万石、垣屋播磨守に
桐山城〔浦富〕1万石が与えられた。新たに鳥取城に入った宮部継潤は、西坂の松の丸に在った居館を
二の丸〔現在の右膳ノ丸辺り〕に移し、居館を中心に鳥取西高校の正門辺りまで整備した。1596年
継潤は隠居、その子長煕〔元房〕が継いだが、1600年「関ヶ原の戦い」で西軍に与して所領を没収
。播磨国姫路藩主池田輝政の弟長吉が近江国内3万石から因幡国岩井・邑美・八上郡に於いて6万石を
領して鳥取藩を立藩した。長吉は鳥取城を近世的城郭に大改修、1614年長吉没後、1617年嫡男
長幸は5000石の加増を受け、備中国松山へ転封。同じくして因幡・伯耆国の諸藩は悉く転除封とな
り、代わって播磨国姫路藩42万石から幼少の池田光政が因幡・伯耆国32万石で入封。1619年よ
り光政は城下町の整備を完成させ、1632年備前国岡山城へ移り、岡山から幼少の従兄弟池田光仲が
鳥取へ入封。光仲はわずか3歳で藩主となり、1648年19歳で初めて鳥取城へ入った。1685年
光仲が隠居、光政の子綱清が家督を相続。1692年11月11日本丸〔山上ノ丸〕の天守が落雷によ
り焼失、以後再建されず。1700年池田綱清に嫡子無く、綱清の弟仲澄の子吉泰が跡を継ぎ、叔父清
定〔綱清の弟〕に新田1万5000石(西館新田、のち若桜藩)を分与、1702年父仲澄に5000
石を分与される。1720年城下の大火〔石黒大火〕により鳥取城も延焼、1721年三ノ丸を中心に
再建が始まり、1728年二ノ丸三階櫓の石垣修理完、1735年二ノ丸の三階櫓・走櫓が再建された
。その後、1739年池田宗泰-1747年重寛-1783年治道-1798年斉邦-1807年斉稷
-1830年斉訓-1841年慶行-1848年慶栄-1850年慶徳と続き、1869年版籍奉還、
1871年廃藩置県を迎える。1875年陸軍省によって不要な71棟の建物が解体撤去され、188
9年三ノ丸に尋常小学校が建てられる。1890年陸軍より旧藩主鳥取池田家へ城跡を払い下げられ、
1936年久松山全山が市民に開放され、1944年城跡が鳥取池田家から鳥取市へ寄贈される。19
57年国史跡に指定される。現在は曲輪、石垣、水堀、井戸跡、竪堀が残る。

【所感】鳥取城跡は久松山山頂の「山上ノ丸」と西麓の「山下ノ丸」に大別される。「山上ノ丸」は本
丸〔標高260m〕の西に二ノ丸〔標高255m〕・三ノ丸〔標高251m〕と順に並び、本丸の東側
は一段下がって出丸が護っています。本丸には月見櫓跡、車井戸跡、天守台が在り、太閤ヶ平〔たいこ
うがなる〕の頂も見えます。天守台からの眺めは最高!。北西に千代川と鳥取市街地、北に鳥取砂丘・
日本海が見えます。この景色を見るために急な登城道を登って汗を掻きましたが、涼風があって助かり
ました。久松山西麓の「山下ノ丸」は天球丸〔標高51m〕・二ノ丸〔標高37m〕・右膳ノ丸〔標高
26m〕・三の丸〔標高13m・鳥取西高校敷地〕などから成っており、沢山の石垣を見ることが出来
ます。久松山はもともと岩山であることから、石垣の石は二ノ丸の岩壁から切り出して〔石切り場〕使
っています。また、二ノ丸自体も岩山を削って平坦にしており、盛土をして築かれた箇所や曲輪につい
ては、樋や排水路が設けられています。私が考える「山下ノ丸」の見所としては、天球丸の石垣崩落防
止として築かれた丸い巻石垣〔復元〕・天球丸南側の二重竪堀・二ノ丸中央部の三階櫓台・二ノ丸北端
の登石垣です。また、石垣の積み方が一気高く積むのではなく、2つ、3つに分けて犬走りを設けて積
んでいる箇所が二ノ丸西面などで見られるので、こちらもお薦めです。私は体力・時間の都合で行きま
せんでしたが、秀吉軍が布陣した「太閤ヶ平」も沢山の遺構があり、国指定史跡エリア全体を撮り歩く
と一日は掛かる広大な鳥取城跡。山陰で訪ねて欲しい城跡の1つです。







天守台・本丸『山上ノ丸』



天守台から見える鳥取砂丘『山上ノ丸』



本丸『山上ノ丸』



車井戸・本丸『山上ノ丸』



本丸から見た出丸と鳥取市街『山上ノ丸』



月見櫓台・本丸『山上ノ丸』



月見櫓台から見た二ノ丸『山上ノ丸』



二ノ丸『山上ノ丸』



三ノ丸『山上ノ丸』

 

史跡鳥取城跡附太閤ヶ平の看板『山上ノ丸』〔写真:左〕中坂稲荷神社『中坂』〔写真:右〕



復元 西坂下門『山下ノ丸』



右膳ノ丸南側の石段『山下ノ丸』



右膳ノ丸『山下ノ丸』



二ノ丸裏御門跡への石段『山下ノ丸』



二ノ丸の裏御門跡と三階櫓台『山下ノ丸』



登石垣・二ノ丸北端『山下ノ丸』



二ノ丸北エリア『山下ノ丸』



二ノ丸北エリア西面の石垣『山下ノ丸』



二ノ丸の石切場『山下ノ丸』



二ノ丸南エリア『山下ノ丸』



走櫓跡・二ノ丸南エリア『山下ノ丸』



二ノ丸三階櫓跡から見た仁風閣『山下ノ丸』



二ノ丸南エリア西面の石垣『山下ノ丸』



二ノ丸南エリア南面の石垣『山下ノ丸』



二ノ丸南西角の菱櫓跡『山下ノ丸』



大菱櫓跡から見た表御門跡『山下ノ丸』



二ノ丸内から見た表御門跡『山下ノ丸』



二ノ丸の表御門跡『山下ノ丸』





天球丸と排水路『山下ノ丸』



風呂屋門跡・天球丸『山下ノ丸』



天球丸南西角の三階櫓跡〔のちの武具蔵〕『山下ノ丸』



復元 巻石垣と楯蔵跡『山下ノ丸』




復元 巻石垣『山下ノ丸』



楯蔵跡『山下ノ丸』



山下ノ丸最古の石垣・楯蔵跡下『山下ノ丸』



三ノ丸・鳥取西高等学校『山下ノ丸』



太鼓御門跡『山下ノ丸』



北ノ御門跡『山下ノ丸』

 

水堀『山下ノ丸』