伊勢 津城
Tsu castle

     お城公園【三重県津市丸之内27】
     津市役所【三重県津市西丸之内23−1】
丸の内まつなが眼科【三重県津市東丸之内21−6】

【立地】平城
【別称】安濃津城

【県指定史跡】

【歴史】1568年織田信長は伊勢平定を始め、長野城主長野氏〔工藤氏〕一族と対戦。先
ず長野家の宿将細野藤敦の安濃城を攻撃したが落ちず、藤敦の弟分部光嘉と川北藤元を通じ
て藤敦を説得して和睦。織田信長の弟三十郎信良〔信包〕を長野家の養子として跡目を継が
せた。長野城には長野具藤が居た為、1570年信良は伊勢上野城を築いて5万石を領し、
分部光嘉を家老とした。上野城は急造で狭小であった為、津城の築城を始めたが、「長島一
向一揆」や「越前攻め」に出兵していたので、工事は滞っていた。1580年五重天守、城
郭が完成。1594年信包は近江国へ移り、1595年富田知信・信高父子が5万石で入る
。1599年「文禄の役」の際、冨田知信が渡海して戦功を挙る。1600年「上杉討伐」
で信高は家康に従軍し、三成の挙兵で急ぎ帰城したが、毛利秀元・長束正家軍に攻められて
落城。信高は剃髪して高野山へ隠れた。1600年「関ヶ原の戦い」の後、7万石で津城へ
復帰、1608年5万石の加増を受け、伊予国宇和島城12万石へ移封となる。替わって藤
堂和泉守高虎が22万石〔伊勢国10万石+伊賀国10万石+伊予国2万石〕で伊賀上野城
へ入り、1609年津城へ移った。高虎は丹波篠山城・丹波亀山城の築城に参加し、161
1年伊賀上野城と津城の大改修を同時に始めた。先ず本丸の北を拡張し、三重櫓を2棟、二
重櫓を3棟を建て、「関ヶ原の戦い」で焼失した天守は、天守台のみ積み直した。で161
5年「大坂の陣」の後、32万3950石となる。その後、高次−高久−高睦−高敏−高治
−高朗−高悠−高嶷−高兌−高猷を経て、高潔で廃藩置県となる。現在は公園、住宅、官庁
街となり、1958年本丸模擬櫓が建てられ、1971年藩校表門の入徳門を移築、曲輪、
石垣、水堀が残る。

【所感】津市役所東にお城公園・津城跡が在ります。内堀は西の丸から本丸北側を囲むよう
にコの字型に残り、本丸、西の丸は土橋のみで繋がれていたのものが、現在は日本庭園で繋
がれて一体になっています。東鉄門跡の石垣に模擬本丸櫓が置かれ、南側の埋門跡西に目立
たない様に小天守台・大天守台が鎮座しています。藤堂高虎が築いた水堀、石垣が残り、近
世城郭の遺構を見ることが出来ます。





三重三階 模擬 本丸櫓・東鉄門多聞櫓台



本丸東鉄門脇の太鼓櫓台



本丸東鉄門跡



藤堂高虎騎馬像・本丸



本丸西鉄門跡



移築 藩校「有造館」の正門 入徳門・西の丸



西の丸三階門の石垣



西の丸門跡



玉櫓跡・西の丸




西の丸南側の水堀



西の丸北側の水堀と石垣





戌亥三重櫓台・本丸





北多聞櫓跡・本丸



丑寅三重櫓台・本丸





月見櫓台・本丸



埋門跡・本丸



南多聞櫓跡・本丸







天守台・本丸



お城前公園・東の丸付近



藤堂高虎公・丸の内まつなが眼科前