伊賀 筒井古城
Tsutsui old castle

筒井古城跡【三重県伊賀市上野丸之内】
 上野城跡【三重県伊賀市上野丸之内106−3】

【立地】平山城

【歴史】もとは平清盛の発願で建立された平楽寺、その西の丘に伊賀守護仁木氏の館が在った場所とさ
れる。1579年9月伊勢の国司織田〔北畠〕信雄が8000の兵を率いて伊賀を攻めるが、伊賀の土
豪に敗退。1582年9月織田信長の兵4万の援助を得て、伊賀を平定、家臣滝川雄利を伊賀守護とし
た。雄利は阿拝郡の仁木氏故館・伊賀郡の丸山城・名張郡の滝川市城〔小波田城〕を修復して伊賀を支
配。1582年「本能寺の変」の後、秀吉の時代へ移ると、1584年10月脇坂安治が伊賀守護とな
り、長田の市場に城館を築いて住んだが、翌1585年5月摂津国1万石へ移封。8月大和郡山城主筒
井定次が羽柴姓を賜り、伊賀守に任ぜられ、伊賀国12万石+伊勢・山城8万石で移封となった。定次
は旧伊賀守護仁木氏の故館跡に仮館を建て、平楽寺・薬師寺跡地に築城を開始。完成は文禄年間(15
92〜1596年)と云う。1600年「関ヶ原の戦い」の際、定次は徳川家康に従って会津の上杉征
伐に参加。実兄の筒井十郎玄蕃允を上野城の留守居としたが、石田三成の西軍に与した高槻城主新庄駿
河守直頼・直定父子の軍勢に攻められ、十郎玄蕃は戦わずして城を明け渡し、高野山へ逃れた。これを
聞いた定次は家康に許しを得て直ぐに軍勢を率いて戻り、城を奪取。その後、定次は秀頼の寵臣大野治
長一族と誼を通じていた、家臣間の抗争があったなどから、1608年6月領地を没収され、陸奥国磐
城平藩主鳥居忠政の預かりとなる。8月伊予国今治城主藤堂和泉守高虎が伊賀・伊勢20万石・伊予国
今治内2万石で入封。1611年1月自らの縄張りで上野城と津城の大修築を行い、特に上野城は豊臣
方の備えとして高石垣で築かれた。1615年「大阪夏の陣」の後、上野城は伊賀国の城として存続が
許され、筒井時代の本丸建物はそのまま城代家老の屋敷として使い、明治まで建物が在ったと云う。現
在、発掘調査が進む中、曲輪、石垣、土塁が残る。

【所感】江戸時代も城代屋敷として使われ、城代役所跡の石碑も立っていることから、元は筒井氏の城
だったこと気付く人は多くはないと思います。曲輪を支える石垣がよく残っていますが、現在は発掘中
なのか?屋敷跡内へ入れないようになっています。



 

裏門西端の石垣〔写真:左〕裏門跡(台所門跡)〔写真:右〕

 

裏門奥の大納戸蔵跡〔写真:左〕表門への石段〔写真:右〕



本丸南端の石垣