石見 津和野城
Tsuwano castle

津和野城跡【島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂】

【立地】山城
【別称】一本松城・三本松城・蕗城・橐吾城

【国指定史跡】津和野城跡

【歴史】蒙古襲来〔1274年・1281年〕後、鎌倉幕府は九州・中国・四国沿岸の警固
を進め、1282年10月17日鎌倉幕府将軍惟康親王の命で吉見三河式部孫四郎頼行が御
教書をもって石見国内の志賀(鹿足郡)、美濃両郡を賜い、能登より下向。美濃郡白上村に
至り、家士36人、雑兵1000余人と共に志賀郡〔鹿足郡〕、木辺〔木部〕、木曾野〔木
薗〕村の山家に移住した。1295年三方を津和野川が囲む標高362m、比高200mの
尾根に吉見頼行が築き、頼行が戦死した後は子の頼直に継がれ、1324年に完成した。有
事は山城に立て籠もり、平時は喜時雨〔津和野町田二穂〕の居館に住んだ。往時、喜時雨が
大手、搦手が津和野町後田側であったが、坂崎氏、亀井氏時代に城下が入れ変わった。吉見
氏6代成頼の時、出雲の尼子氏、周防の大内氏らがその威を近国に振るうようになり、周防
・長門・安芸・石見の豪族は大内氏や尼子氏に分かれ、吉見氏は母方の縁故があって大内氏
に属した。9代吉見式部四郎正頼〔頼興の四男〕の時、1551年9月陶晴賢が大内義隆を
熊毛郡大寧寺で弑した。大内義隆は吉見正頼の室大宮姫の弟であり、毛利氏と謀って義弟の
仇討を企てたのである。1553年挙兵したことで大内氏・陶氏の大軍が攻め寄せ、三本松
城の南方陶ヶ嶽に陣を構えて激戦となったが、城は落ちなかった。1570年吉川氏・小早
川氏が石見の諸城を抜き、最後に三本松城を600騎で包囲。辰巳の水源地を石見の金掘工
夫に掘らせて水攻めを行ったが、この時も落城しなかった。1600年『関ヶ原の戦い』で
11代広行〔広長〕は西軍に属して毛利輝元に従って大坂を守った。西軍の敗戦から毛利氏
は8国〔安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐・伯耆半国・備中半国〕→2国〔長門
・周防〕に減封となる。石見の吉見氏も領地を没収され、家臣は四散、広行は長門国阿武・
厚東2郡1万1390石を得て、同年冬、石見国津和野→長門国萩へ移住した。備前国岡山
城の宇喜多秀家の一門であった坂崎出羽守直盛は、1600年『関ヶ原の戦い』で東軍に属
して戦功を挙げて津和野城主になり、2万4000石で津和野藩を立藩。1615年『大坂
夏の陣』で大坂城落城の際、家康の孫〔豊臣秀頼の正室〕千姫を救出した功で、1616年
1万石の加増を受けた。家康は直盛へ千姫を嫁がせる約束をしたが、千姫が嫌がって本多忠
刻に嫁ぐことになった。坂崎直盛はこれを憎んで千姫奪取を企てたが、柳生宗矩の説得によ
って自刃、坂崎氏は断絶した。1617年因幡国鹿野から亀井政矩が4万3000石で入封
したが、1619年に急死、3歳の茲政が家督を継いだ。亀井家の重臣は尼子氏の遺臣が多
く、派閥を作って家臣団の抗争が絶えなかった。1635年藩政を牛耳っていた尼子旧臣の
年寄多胡勘解由派と新興の執政多胡真清派の間で対立が起こり、幕府が介入して勘解由が敗
れ、ようやく藩政が確立した。茲政-茲親の代では多胡真益・真武兄弟が藩政を補佐し、田
畑の開墾、山地を利用して楮(こうぞ)・櫨(はぜ)・漆・茶などの栽培を奨励し、小藩な
がら莫大な藩資金を得た。茲満-茲延-茲胤-矩貞を経て、1783年矩賢は朱子学者山口
剛斎を招いて、1786年藩校『養老館』を創設した。茲尚-茲方の後、1839年茲監が
家督を継ぐ。領内の飢饉で藩財政は窮乏、1842年から藩政改革を断行し、家老多胡丹波
を隠居させ、有能な家臣を登用した。1848年砲術家下曽根金三郎の門に家臣を入門させ
、洋式銃の操作を学ばせ、兵制革新調査掛を置き、カノン砲を備えるなど、経済・兵制に新
しい方法を取り入れた。養老館で初めて儒学を講じたが、次第に医学・兵学などの科目を増
やし、国学科を設けて大国隆正や福羽美静ら優れた国学者を輩出した。『長州征討』では幕
府から出兵を命ぜられたが、長州藩兵とは戦わず、1868年1月『鳥羽伏見の戦い』では
新政府軍に属し、同年神祇官副知事に任ぜられ、以来神祇関連に掌った。1869年版籍奉
還し、亀井茲監は藩知事に就き、1871年廃藩置県を迎えた。1942年国指定史跡、2
006年日本100名城に選定され、現在は曲輪・石垣・堀切・馬場先櫓・物見櫓が残る。


【所感】今回、観光リフトを使って尾根に乗り、遊歩道と標柱に従って堀切→出丸→城阯碑
→東門跡→三段櫓跡→西三の丸→西門跡→南三の丸→南門跡→天守跡→本丸→太鼓丸→二の
丸の順に回りました。総石垣造りの城は切り立った山の上に石垣が組まれ、山麓から攻めに
くい構造になっていますが、尾根伝いも蕉坂峠辺り→中荒城跡まで南北2キロに亘って曲輪
・堀切・竪堀などの防御がなされ、吉見氏時代の城が敵兵を跳ね返す堅固な山城であったこ
とが伺えます。今回は石垣エリアのみの撮影で終わりましたが、次回は尾根伝いの土の遺構
、山麓の建物遺構も撮影したいと思います。




観光リフト山麓駅駐車場の城跡碑と説明板



観光リフト



観光リフト山頂駅近くの堀切



出丸手前の枡形虎口





出丸虎口



出丸(綾部丸)



土塀の控柱跡・出丸(綾部丸)



平櫓跡・出丸(綾部丸)



二重櫓跡・出丸(綾部丸)



リフト乗り場×出丸(綾部丸)×本丸(三十間台)の分岐点





本丸(三十間台)への登城道



津和野城阯碑と津和野城跡の看板・本丸(三十間台)への登城道沿い





本丸(三十間台)への登城道





東門跡





東門跡横の三段櫓跡





西三の丸



台所平櫓跡・西三の丸



馬立跡・西三の丸



海老櫓跡・西三の丸



西門跡・三の丸



天守台



太鼓丸まで続く二の丸



南三の丸入口の石垣







南三の丸







本丸(三十間台)から見た人質櫓台(人質曲輪跡)と南三の丸





南門跡・南三の丸



本丸(三十間台)から見た城下







本丸(三十間台





本丸-太鼓丸(二の丸)間の石段







太鼓丸(二の丸)



棟門跡まで続く帯曲輪



太鼓丸から見た棟門跡