三河 上野上村城
Ueno uemura castle

    上野上村城跡【愛知県豊田市上郷町薮間】
     上郷児童館【愛知県豊田市上郷町薮間17−1】
      護国神社【愛知県豊田市上郷町薮間17−8】
      藪間公園【愛知県豊田市上郷町薮間3−1】
八十塚保育園・善揚院【愛知県岡崎市鴨田町南魂場2−1】

【立地】平城
【別称】上野城・上野上村古城

【歴史】1469年頃、藤原実興の嫡子戸田弾正左衛門宗光〔〜1499年6月19日〕の築城とされ
る。応仁・文明の乱(1467〜1477年)の為、1468年乱を避けて正親町三条家の藤原実興は
妻方の近江国戸田頼房の館に入り、その後、尾張国戸田郷→三河国碧海郡上野へ移住した云う。当時、
上野庄は三条家の所領、代官は戸田頼房の嫡子戸田忠宗であったが、嗣子が無かった為、藤原実興を養
子に迎えて藤原姓→戸田姓に改称した。1475年戸田宗光と父実興・嫡子憲光は渥美郡大津へ移り、
代わって弟の戸田家光〔1474〜1502年〕が入るが、松平宗家4代親忠に攻め取られる。149
3年「井田野の戦い」では上野城主阿部孫次郎・寺部城主鈴木氏・拳母城主中条氏・八草城主那須氏・
伊保城主三宅氏の連合軍が松平宗家4代親忠に敗れ、服属。1494年この戦の功により、松平宗家6
代信忠の弟桜井松平信定〔〜1538年〕が上野城主となり、清定〔〜1543年〕−家次の居城とな
った。1545年「広畔畷の戦い」の際、松平清定−家次・酒井将監忠尚・忠尚の与力榊原七郎右衛門
長政の連合軍が松平宗家8代広忠に敗れ、1546年酒井将監忠尚〔酒井忠次の兄、或いは叔父とも〕
が許されて城主となる。1563年「三河一向一揆」の際、一揆方として松平宗家9代家康と戦ったが
、1564年一向宗との和議で一揆は治まり、忠尚は駿河へ逃れた。その後、岡崎城代石川数正の管理
下となり、上野七人衆と呼ばれる在藩衆が置かれた。徳川四天王榊原康政〔1548〜1606年〕生
誕地として知られる。現在は藪間公園、上郷児童館、護国神社に変わり、土塁状の盛山が残る。

【所感】県道239号線、家下川に隣接して上郷児童館、護国神社、藪間公園が在り、このエリア〔上
郷町藪間〕を本丸とし、藪間に近い上郷町市場に曲輪が在ったようです。児童館横に榊原康政生誕之地
の石碑、城址碑、歴史看板などが並びますが、これに榊原康政公の銅像が加われば最高なんですが…。
1548年榊原康政の生誕地は上野下村城とされ、酒井忠次・本多忠勝・井伊直政らと共に徳川四天王
と呼ばれています。初陣は1563年「三河一向一揆」の上野合戦。1570年「姉川の合戦」、15
72年「三方ヶ原の戦い」、1580年「高天神城の戦い」などで活躍し、1590年徳川家康と共に
関東へ移り、1606年上野国館林で亡くなりました。城跡から北西250m程に戸田氏の菩提寺「誓
願寺」が在ります。本堂西側の墓地に戸田実興〔1482年〕戸田氏一〔1500年没〕戸田宗光〔1
508年没〕戸田憲光〔1513年〕の墓が在ります。岡崎市の善揚院〔八十塚保育園裏〕に榊原八代
の墓碑が在りますが、榊原家の家系図に不明な点が多く、榊原康政と榊原八代との繋がりはよく分かり
ませんが、同時代に生きた人物も含まれています。




上野上村城跡・城山稲荷社・上郷児童館

 

榊原康政生誕之地の石碑・上郷児童館〔写真:左〕城山稲荷社・上郷児童館〔写真:右〕

 

上野城址碑・上郷児童館〔写真:左〕戸田氏墓所・誓願寺〔写真:右〕




榊原八代の墓碑〔榊原貞政-清政-政光-忠次-政久-重政-定次-忠直の合祠碑〕・八十塚保育園裏