三河 牛久保代官所
Ushikubo chief administrator place

牛久保代官所跡【愛知県豊川市牛久保町城跡】

【立地】平地

【歴史】1606年尾張国緒川から水野分長が三河国設楽・宝飯郡内1万3000石で入り
、新城藩を立藩、当地も支配下となった。1636年牛久保代官所が設置され、鈴木八右衛
門隆政が幕府領20ヶ村を支配した。鈴木氏は平口村〔西尾市平口町・平口古屋敷〕に居屋
敷を構えた足助鈴木氏の流れを汲む土豪であり、1563年「三河一向一揆」の時は門徒武
士として家康に敵対しましたが、隆政の祖父重直の時に家康に仕えた。前後村〔一色町〕・
瀬戸村〔吉良町〕を与えられ、1609年父隆次の時、三河代官に任命される。支配地は安
城・大浜村など、碧海郡内にその中心があったらしい。1635年三河湾の大浜・鷲塚・平
坂・犬飼・御馬の5ヶ所が公儀の湊「三河五港」に指定され、その管理・支配にもあたった
。1636年隆次が没し、隆政が父の遺業を継いで三河代官となり、牛久保に本拠を置き、
鳥山牛之助精明と共に幕府領を支配。寛永年間(1624〜1645年)に2度、西尾城代
も務めた。1652年隆政没後、息子の鈴木山三郎重政に継がれ、1655年鈴木八右衛門
重政に改名した。鳳来寺の修復、吉田大橋の架け替え、朝鮮通信史の賄役などで活躍したが
、1683年伊勢・四日市代官に任地替えとなり、あとの国領半兵衛重次は赤坂に代官所を
置いた為、牛久保代官所は廃止された。現在は住宅が建ち、遺構は無い。


【所感】代官所の位置は牛久保城域の南西一角とされ、牛久保駅の南で県道400号線に隣
接した高台辺りになります。駅南は建ってまだ新しいアパート、住宅が多く在ります。




牛久保代官所跡辺りか