筑後 柳川城
Yanagawa castle

  柳川城跡【福岡県柳川市本城町・城南町・茂庵町・城隅町ほか】
 柳城中学校【福岡県柳川市本城町82-2】
柳川高等学校【福岡県柳川市本城町125】

【立地】平城
【別称】柳河城・梁河城・舞鶴城

【市指定史跡】柳川城本丸跡

【歴史】永禄年間(1558~1570年)、蒲池武蔵守鎮盛の築城とされる。文亀年間(
1501~1503年)蒲池筑後守治久が蒲池城の支城〔砦〕として築いたともあるが、現
在の柳川城と同位置か不明。天正年間(1573~1591年)、大友氏の配下にあった蒲
池氏は龍造寺氏との合戦を重ねたが、1581年蒲池鎮盛の子鎮並は龍造寺隆信の甘言に乗
って和議に応じ、その席で謀殺されると、柳川城は龍造寺の支城となり、鍋島直茂・龍造寺
家治が入った。1587年秀吉による島津征伐の論功行賞により、筑前の立花城主立花〔統
虎〕宗茂が山門・下妻・三潴・三池内13万2200石を賜り、柳川城主になった。宗茂は
直ぐに従四位下侍従となり、羽柴氏の氏と豊臣姓を授けられ、羽柴柳川侍従といった。15
92~1593年「文禄の役」、1597~1598年「慶長の役」で戦功を挙げた。16
00年「関ヶ原の戦い」で宗茂は西軍に属し、戦後、大坂から柳川城へ戻って籠城するが、
黒田如水・加藤清正の説得により開城。宗茂は陸奥国棚倉1万石へ移封、1601年石田三
成捕縛の功により、三河国岡崎10万石田中吉政が筑後国一国32万5000石で入封。吉
政は筑後・矢部川流域の改修、諸村の開拓奨励、有明海沿岸32キロに及ぶ慶長本土居の築
堤を行うが、1609年江戸へ向かう途中で没した。跡を継いだ忠政も1620年に没し、
無嗣絶家となった。代わりに陸奥国棚倉藩主立花宗茂が10万9600石余で再入封、柳川
城を改修、城下町を整備した。1637年4月宗茂は致仕、一族直次の4男忠茂が養嗣子と
なった。同年11月「島原の乱」では宗茂・忠茂ともに出陣、1638年2月28日の総攻
撃で島原城詰の丸を落とした。1663年鑑虎が家督を相続し、領内の総検地を行い、新た
に2万石を打ち出し、総計5万5000石余に増加した。1696年鑑任が継ぎ、1697
年叔父貞晟に5000石を分与。1721年家老小野春信は三池郡平野山に炭鉱を開くが、
これが三池炭鉱の始まりと云う。鑑任が没し、その後、貞俶-貞則-鑑通-鑑寿-鑑賢と継
がれ、1824年藩校「伝習館」を設立、鑑広-鑑備を経て、鑑寛で明治を迎える。現在は
本丸・二の丸は学校、三の丸は住宅、水堀がよく残り、水掘の観光船は有名である。

【所感】柳川城の本丸・二の丸は、普通に中学校が本丸、高校が二の丸ではなく、その境界
線は単純な分かりやすいものではありません。中学校・高校を囲む道に「城隍○○隅」の石
碑が四隅に立っており、これが本丸+二の丸を囲む水堀の外側になります。西側の水堀は幅
約82m、北・南・東側は幅30~40m程。中学校に残されている土壇が本丸の南西隅。
高校の自転車置き場南端が二の丸の北東隅。本丸は1町〔約109m〕四方だったので、東
本丸と二の丸の境界は、柳川高校前のバス停辺りと思われます。本丸全体を取り囲んでいた
石垣は、明治以降、干拓の石材として転用された為、現在、中学校×高校間に在る石垣は、
土壇止めとして別の石で積んだものと思われます。本丸、二の丸、内堀は消失しましたが、
中堀・外堀は地図で見ると、水堀の形がよく残ってます。




天守跡辺り(15m×19m)・本丸



本丸西面の土手



天守跡辺りから見た本丸御殿御書院跡方面・本丸



柳城中学校×柳川高等学校間の石垣・近代築造



柳城中学校×柳川高等学校間の道・近代築造



柳川城跡の看板・本丸南面




城隍西南隅の石碑



城隍東南隅の石碑



城湟西北隅の石碑と水堀の名残り



城湟東北隅の石碑





中堀