遠江 横須賀城
Yokosuka castle

横須賀城跡公園【静岡県掛川市西大渕・横須賀・山崎】
    撰要寺【静岡県掛川市山崎1305】

【立地】平山城
【別称】松尾城・両頭城

【国指定史跡】横須賀城跡

【歴史】徳川家康は武田勝頼方の高天神城攻略の為、1578年前線基地として馬伏塚城主大須賀康高
に横須賀城を築かせた。横須賀城を本陣として小笠山、三井山など6つの砦を築き、1580年兵糧攻
めを始める。1581年榊原康政・本多忠勝らが西の丸から攻め入り落城。戦功により大須賀康高は3
万石を得る。1589年6月康高が没すると、養子忠政〔榊原康政の子〕が家督を継ぎ、1590年家
康関東移封に伴い、忠政は上総国久留里3万石へ移った。替わって大坂城から渡瀬繁詮が3万石で入封
するが、1595年豊臣秀次事件に連座して改易となり、佐竹義宣の預けられて自害した。新たに渡瀬
繁詮の家臣有馬豊氏が3万石で入り、1600年「関ヶ原の戦い」の戦功で、1601年丹波国福知山
6万石へ転封。大須賀忠政が松平を称して6万石で再入封した。忠政は天守や城下町造りに着手したが
、1607年27歳の若さで没し、わずか3歳の忠次が継いだ。1615年忠政の生家上野国館林藩主
榊原康勝に嫡子が無かった為、徳川四天王の榊原家が途絶えることを惜しんだ幕府は、孫の松平忠次を
継がせ、大須賀家は断絶、廃藩となった。1619年駿河国田中藩主六郷政利が城代として入り、同年
、能見松平重勝が2万6000国で入封、再立藩する。1621年重忠が遺領を継ぎ、1622年出羽
国上山3万石へ転封、替わって井上正就が5万2500石で入封。正利が遺領を継ぎ、弟正昭に700
0石を分与し、4万7500石を領した。1645年1万石を加増され、常陸国笠間へ転封となり、三
河国岡崎から本多利長が4万8500石で入封したが、藩治の失敗などを理由に出羽国村山へ転封とな
る。1682年信濃国小諸から2万5000石で西尾忠成が入封、次の忠尚で3万石→3万5000石
を領有し、忠需−忠移−忠善−忠固−忠受と続き、最後の藩主忠篤は1868年安房国花房4万300
0石へ転封となり、横須賀藩は廃藩となる。現在は横須賀城跡公園、住宅、草地、茶畑となり、石垣、
曲輪、土塁、横堀などが残る。撰要寺に不明門が移築されている。

【所感】横須賀城はいつも石垣が目に入ると、本丸の入口に車を止めてしまいますが、専用駐車場は横
須賀城跡公園の西側に在ります。横須賀城跡公園は主に本丸・西の丸周辺を指し、北の丸・松尾山・三
の丸・二の丸・南外堀などは公園外のエリアですが、広場や草地で撮り易い環境になっています。復元
と環境整備が進められ、更に分かりやすくなって行けばと思っています。




本丸下南門へのスロープ



本丸下南門内の曲輪



三日月池北側の曲輪と本丸へのスロープ

 

本丸北端の土塁〔写真:左〕本丸〔写真:右〕

 

本丸土坑群〔写真:左〕横須賀城址の石碑・本丸〔写真:右〕

 

天守台・本丸〔写真:左〕北の丸〔写真:右〕

 

西の丸西側の腰曲輪〔写真:左〕西の丸〔写真:右〕

 

多聞櫓台・松尾山〔写真:左〕三の丸〔写真:右〕

 

米蔵跡〔写真:左〕三日月池〔写真:右〕

 

御殿跡・二の丸・幼稚園跡地〔写真:左〕不開門跡〔写真:右〕

 

移築 不明門・撰要寺〔写真:左〕大須賀康高と大須賀忠政の墓・撰要寺〔写真:右〕