近江 膳所城
Zeze castle

  膳所城跡【滋賀県大津市丸の内・本丸町】
膳所城跡公園【滋賀県大津市本丸町7】
  膳所神社【滋賀県大津市膳所1丁目14-14】
  鞭崎神社【滋賀県草津市矢橋町1462】
  篠津神社【滋賀県大津市中庄1丁目14-24】

【立地】水城
【別称】石鹿城・望湖城

【国重要文化財】膳所城伝本丸表門〔膳所神社表門〕・旧南大手門〔鞭崎神社表門〕
           旧北大手門〔篠津神社表門〕


【歴史】1600年「関ヶ原の戦い」で勝利を収めた徳川家康は各地に築城を始める。既に
大津城が存在していたが、関ヶ原合戦の際、背後の長等山から大筒を撃ち込まれた欠点があ
った為、検討の後、相模川河口の膳所崎に新城築城を決めた。1601年家康は藤堂高虎に
縄張りを命じ、諸大名を助役に天下普請で行われた。完成した城は本丸・二の丸御殿・北の
丸・三の丸全てが琵琶湖の湖水を堀とする水城で、幕府の畿内支配、京都・大坂に対する前
衛基地の一つと位置付けられた。初代城主は武蔵国鯨井5000石の戸田一西が3万石で入
り、膳所藩を立藩した。一西は民政に力を注ぎ、武蔵国から蜆を瀬戸川に放ち、漁民の保護
の一策とし、戸田左門一西の名をとって「左門しじみ」と呼ばれた。1603年8月一西没
後、嫡男氏鉄が継ぎ、1605年徳川将軍家2代秀忠が参内の際、供奉を務め、秀忠は膳所
城に一泊している。1614~1615年「大坂の陣」の戦功により、1616年氏鉄は摂
津国尼崎に転封、1617年三河国西尾2万石の本多康俊が3万石で入封。1621年2月
嫡男俊次が継ぐが、7月3万5000石で旧領西尾へ戻り、伊勢国長島から菅沼定芳が3万
1000石で入封した。1634年下総国佐倉から石川忠総が7万石で入封、1651年忠
総没後、孫の憲之は忠総の次男総長に1万石、四男貞当に4000石、七男総氏に3000
石を分与し、同年4月伊勢国亀山に転封。三河国西尾→伊勢国亀山に移っていた本多俊次が
再封し、近江国栗太・滋賀・高島・甲賀・浅井・伊香6郡内と河内国内7万石を領した。1
664年康将を経て、1679年康慶継ぐ際、次男忠恒に1万石を分与し、以後、6万石と
なる。康慶の後、康命-康敏-康桓-康政-康伴-康完-康禎-康融と続き、康穣で明治を
迎える。現在、本丸は膳所城跡公園、二の丸は浄水場に変わり、石垣、城門が残る。


【所感】琵琶湖の南端、近江大橋の袂〔西岸〕に膳所城跡公園が在ります。琵琶湖に突き出
した本丸の場所で、天守閣跡の石碑辺りから波打ち際まで降りると、水面に顔を出している
遺構の石垣が見えるはずです。大津市内に幾つか移築された城が残っているので、次回、し
っかり撮って来たいと思います。





膳所城跡



本丸・膳所城跡公園



膳所城址の石碑・膳所城跡公園・本丸




天守閣跡の石碑・膳所城跡公園・本丸



琵琶湖畔に残る石垣



本丸表門・膳所神社【国重要文化財】



旧北大手門・篠津神社【国重要文化財】



旧南大手門・鞭崎神社【国重要文化財】



本丸黒門・御霊神社



本丸犬走門・若宮八幡神社



膳所城城門・膳所神社



米倉門・近津尾神社



二の丸水門・新宮神社