尾張 岩崎城
Iwasaki castle

    岩崎城跡【愛知県日進市岩崎町市場】
岩崎城歴史記念館【愛知県日進市岩崎町市場67】
     妙仙寺【愛知県日進市岩崎町小林103】

【立地】丘城
【天守の構成・形式】複合式望楼型天守

【歴史】享禄年間(1528〜1531年)、織田信秀が築き、属将荒川頼宗が守備したが、1529
年松平清康の攻撃で落城。しかし、1535年「守山崩れ」で松平清康が没し、本郷城主丹羽氏清(1
485〜1559年)の本城となる。その後、氏識(1497〜1565年)→氏勝(1523〜15
97年)→氏次(1550〜1601年)と続く。氏識は信長に属したが、1551年丹羽氏の同族争
い「横山の戦い」の際、分家の藤島城主丹羽氏秀に信長が援助した為、氏織は城を捨て、一時三河に住
むが、1562年清洲同盟後、岩崎城へ復帰し、信長に属した。氏勝は氏識の子で、織田信秀・信次・
信長に仕えた。1568年信長の上洛戦・1569年「伊勢大河内城攻め」・1570年「姉川の戦い
」・1571年「比叡山焼き討ち」・1575年「越前一向一揆討伐」・1577年「雑賀攻め」など
に従軍し、その後、家康に仕えたと云う。氏次は市岡勘解由盛吉の子で氏勝の養子とされる。1569
年信長の「伊勢大河内城攻め」・1582年信忠の「武田攻め」などに従軍し、信長没後、織田信雄に
仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」では丹羽氏次の弟丹羽氏重(1569〜1584年)が岩
崎城代を務めた。岩崎城を素通りして三河へ進軍予定であった池田恒興隊に攻撃を仕掛け、ダメージを
与えたが、池田紀伊守之助の家臣土肥七右衛門に討たれ、落城となった。戦後、氏次は織田信雄より7
000石を賜り、1590年織田信雄没落後は豊臣秀次に仕え、1595年秀吉より尾張内5000石
を得た。更に、1600年「関ヶ原の戦い」後、三河国伊保1万石を得て、伊保藩を立藩し、岩崎城は
廃城となる。1987年模擬天守復興。現在は岩崎城跡公園に変わり、曲輪、空堀、土塁、櫓台、土橋
、井戸跡が残る。


【所感】現在、岩崎城跡公園となっている岩崎城跡は主郭、主郭の北側に大型馬出、馬出の両脇に西曲
輪・東曲輪、駐車場となっている北曲輪から構成されています。何と言っても見どころは主郭の北側に
横たわる巨大な横堀。模擬天守もカッコいいですが、この横堀は何度見ても感動します。北東300m
程の妙仙寺は丹羽氏の菩提寺で、墓地に丹羽氏一族の墓とされる地蔵菩薩石像が並んでいます。

《岩崎城古墳》この古墳は岩崎城発掘の際、土塁下に偶然発見されたもので出土品である須恵器の特徴
等から6世紀前葉に造られたと推定される〔直径12m〕円墳です。石室に用いられた石材は北方の岩
崎御嶽山近辺に産する変成岩に類似しています。副葬品は小刀・土師器の壷、須恵器の杯等があります
。墳墓はこの地域を経済基盤として力を蓄えた豪族のものと考えられます。調査の結果、遺存状態が必
ずしも良好でなかった為、周辺地域の後期群集墳を参考にして模式的に横穴式石室を復元しています。




丹羽氏重公騎馬像・岩崎城歴史記念館



四重四階 模擬天守・岩崎城跡公園


 

土橋西側の横堀〔写真:左〕土橋東側の横堀〔写真:右〕

 

馬出西側の横堀〔写真:左〕馬出を囲む土塁〔写真:右〕

 

馬出・勘助の井〔写真:左〕主郭−馬出間の土橋〔写真:右〕

 

主郭の井戸跡〔写真:左〕主郭西端の隅櫓跡〔写真:右〕

 

主郭・櫓台上の表忠義碑〔写真:左〕主郭・丹羽勘助古城之趾の石碑〔写真:右〕


 

岩崎城歴史記念館・主郭〔写真:左〕馬出し東方の役行者堂〔写真:右〕

 

岩崎城古墳〔写真:左〕丹羽氏の菩提寺「妙仙寺」〔写真:右〕

 

妙仙寺・臥龍の松〔写真:左〕丹羽氏清夫妻、丹羽氏一族の墓か(地蔵菩薩石像)〔写真:右〕