美濃 明知城
Akechi castle
明知城跡【岐阜県恵那市明智町城山】
龍護寺【岐阜県恵那市明智町東山町1389−1】
【立地】山城
【別称】白鷹城・明智城
【県指定史跡】
【歴史】1247年、城山〔標高530m、比高70m〕に遠山景朝の子景重が築いたと伝わるが、初
めは居館程度のものであったと云う。その後、景長−朝廉−景忠−景房と続き、明知遠山氏の居城とな
る。1336年「南北朝時代」に入ると、明知の遠山景房は足利尊氏に属したが、岩村遠山氏・信濃の
浪合・三河の足助などは後醍醐天皇方に属したことから、この時期に堅固な城に修築されたようだ。頼
景−景基−景次−景勝−景保−景成(兄)→直景(弟)を経て、1572年11月景行の時、武田信玄
の東美濃侵攻で秋山信友の攻撃を受け、12月苗木城・岩村城・明知城・足助の諸城は落城。「上村合
戦」で岩井戸砦に布陣していた景行は5、6騎の兵とともに自刃、明知城は武田方の城となった。景行
の長子景玄も父と共に討死し、景玄の子一行は幼少であった為、景玄の弟が還俗して利景を名乗り、御
家回復を図った。1573年武田信玄が没し、1575年「長篠、設楽ヶ原の戦い」で信長+家康連合
軍が武田勝頼を破り、織田信忠により岩村城、明知城を奪回した。利景は家康に逃れ、1582年「本
能寺の変」で信長没後、明知城へ帰城するが、翌1983年金山城主森長可に攻められ、再び家康を頼
って足助へ出奔した。1584年「小牧、長久手の戦い」の際、家康は利景に明知城奪回を命じたが、
秀吉と家康は和睦に至り、金山城主森忠政が領有し、森左近の城となる。1600年2月金山城主森忠
政が信濃国川中島へ移封。原土佐守が明知城代となったが、「関ヶ原の戦い」が起こると、利景・方景
父子は明知城を奪取し、苗木城の遠山友政と共に岩村城を開城させた。1603年利景は恵那・土岐郡
内で6531石を得、1615年明知城は一国一城令により廃城、明知城西麓に明知陣屋を構えた。現
在は日本大正村の一部となり、曲輪、横堀、竪堀、土塁などが残る。
【所感】東西に長い本丸を二の丸と三の丸が挟み、その南に太い連絡路で繋がった出丸が在ります。こ
れら主たる曲輪は「猿戻し」と称される絶壁の切岸に護られ、その周囲を横堀が走り、横掘から何本も
の竪堀で谷へ落としています。この素晴らしい遺構を確認しながら撮り歩くと、2時間は掛かってしま
います。以前は木々に覆われ、縄張りが分かり辛い状態でしたが、現在は曲輪や散策路の木々が間引か
れ、歩き易く撮り易くなっています。また、日本大正村の一部となっており、ウォーキングコースにも
なっています。西麓には江戸期に構えられた明知陣屋跡、近くの龍護寺に遠山家代々の墓、明智光秀の
供養塔も在って、城跡と合わせて周れば、更に有意義な訪城になると思います。
本丸
畝状竪堀の一つ・本丸北側下〔写真:左〕畝状竪堀の一つ・本丸北西側下〔写真:右〕
二の丸
二の丸と出丸を繋ぐ連絡路
出丸
柱石・出丸〔写真:左〕石垣・出丸入口〔写真:右〕
三の丸(腰曲輪)・本丸西側〔写真:左〕腰曲輪・本丸南側〔写真:右〕
畝状空堀群・出丸北東側下
貯水池・東の丸
伝 明知光秀学問所跡〔写真:左〕万ヶ洞天神神社〔写真:右〕
明知城跡東側入口
明知城跡西側入口付近の土塁
明智城址の看板・明知城跡西側入口〔写真:左〕稲荷社・明知城跡西側入口〔写真:右〕