筑前 秋月陣屋
Akizuki jinya

秋月陣屋跡・秋月中学校【福岡県朝倉市秋月野鳥663】
   朝倉市秋月博物館【福岡県朝倉市秋月野鳥532】
      秋月美術館【福岡県朝倉市秋月野鳥695−1】

【立地】平城
【別称】杉本城・秋月城・黒田氏居館

【県指定史跡】秋月城跡

【歴史】1624年黒田長政の三男長興が構えた陣屋とされる。陣屋が置かれた秋月は、1
203年原田種雄が古処山〔標高859m、比高800m〕に山城を築き、秋月氏を名乗っ
たことに始まる。戦国時代になると、秋月氏は古処山城を有事の詰城、平時の際は山麓に居
館〔秋月城〕を築いて住んだ。天文年間(1532〜1555年)頃、秋月長門守文種は豊
後の大友宗麟に属していたが、1578年「耳川の戦い」で大友軍が島津軍に敗れると、秋
月種実は島津義弘と同盟を結び、筑前国6郡・筑後国4郡・豊前国1郡において36万石を
領有した。1587年秀吉の「九州征伐」で秋月種実・種長父子は敗れ、種実は剃髪、茶入
れの名器「楢柴」と娘を献上、種長は日向国高城・財部〔高鍋〕・串間3万石へ移された。
1596年種実没後、種長が家督を継ぐ。櫛間に入った種長は、1600年「関ヶ原の戦い
」の際、初めは西軍に与したが、後に徳川方に属したことで本領を安堵され、1604年居
城を櫛間→財部〔高鍋〕へ移し、初代高鍋藩主となった。秋月は福岡藩の所領となり、黒田
長政の叔父黒田直之が秋月城に居住したが、1623年初代福岡藩主黒田長政が没し、嫡男
忠之が遺領を相続する際、長政の遺言により、三男長興は筑前国夜須郡内2万6200余石
・下座郡内7800余石・嘉麻郡内1万5900余石が分与され、福岡藩の支藩として秋月
に陣屋を置いた。1637年「島原の乱」では家臣2500人を率いて活躍し、以後、福岡
藩主の名代を務め、時折長崎の警備に就いた。長興はよく領内の民政を治めたが、1665
年に没し、その後、長重−長軌−長貞−長邦−長恵−長堅−長舒−長韶−長元−長義−長徳
と続き、1869年長徳は版籍奉還して知藩事に任ぜられ、1571年廃藩置県を迎える。
1947年当地に秋月中学校開校、1980年「秋月城跡」の名で県指定史跡となる。現在
は中学校となり、石垣、堀、門が残る。


【所感】秋月城跡の遺構は秋月中学校の西側に集中しており、授業がある日でも撮りやすい
状態になっています。往時、濠(中学校西側)に沿って5基の櫓が有ったようですが、現在
、目視で確認出来るのは、学校の北西端に1つ、長屋門隣りに1つ。残り3つは瓦坂を渡っ
た両側に2つ、校門辺りに1つになります。瓦坂を渡った正面の石垣をよく見ると、埋めら
れている箇所が有り、この両脇が櫓台でした。ちなみに…この櫓間を抜けると、右に折れる
枡形大手門が在ったようです。校門辺りの櫓台の場所は分かりません。長屋門裏手〔奥御殿
跡〕の石垣は近代に積まれたものと思われますが、表御殿〔中学校グランド〕も含めて、城
内がどの程度の高低差で建物が建っていたか、これもよく分かりません。秋月城跡前の道〔
杉の馬場〕は桜並木になっており、黒田家菩提寺や家臣の屋敷跡、博物館、美術館、黒田長
韶時代に造られた眼鏡橋などもあり、桜の時期は観光客で賑わうことでしょう。




櫓台




石垣・堀・瓦坂





瓦坂













長屋門〔裏門〕・1850年建築【県指定有形文化財】







奥御殿跡



表御殿跡・秋月中学校グランド




垂裕神社・1873年造営



長屋門横の櫓台



黒門〔旧秋月城大手門 or 旧古処山城搦手門〕【県指定有形文化財】





秋月眼鏡橋(長崎橋)・1810年築造【県指定有形文化財】