摂津 尼崎城

Amagasaki castle

     尼崎城跡【兵庫県尼崎市北城内・南城内】
   尼崎城址公園【兵庫県尼崎市北城内27】
尼崎市立歴史博物館【兵庫県尼崎市南城内10−2】
    明城小学校【兵庫県尼崎市南城内10−1】

【立地】平城
【別称】琴浦城・尼丘城
【天守の構成・形式】複合式層塔型天守

【歴史】豊臣秀吉に仕え、摂津国尼崎郡代700石を領した建部寿徳〔高光〕の孫政長は、
1615年「大坂夏の陣」の戦功で摂津国川辺・闕〔西成〕両郡において1万石に加増され
、尼崎藩を立藩するが、1617年播磨国林田へ転封。代わって近江国膳所3万石戸田氏鉄
が川辺・武庫・莵原・八部4郡内5万石で入封。氏鉄は尼崎城を新築、城下町を整備、尼崎
藩の礎を築き、1635年美濃国大垣10万石へ移る。遠江国掛川3万3000石から青山
幸成が5万石で入封。儒者を招いて治政の基礎を固め、武庫川沿いに新田を開発、地方支配
機構として「郡右衛門の制(大庄屋制)を設置した。1643年幸成没後、嫡男幸利は幕府
に懇願して新墾田4000石の所領を得、次男幸通:3000石、三男幸正:2000石、
四男幸高:1000石を分与し、4万8000石となる。1677年から幸利は藩札〔金・
銀・銭札〕を発行。幸督を経て、1711年幸秀は信濃国飯山へ移る。遠江国掛川から桜井
松平忠喬が入り、川辺・武庫・莵原・八部4郡内4万石を領有。1751年忠名−1766
年忠告が継ぎ、灘の村々に大規模な江戸積みの酒造業・絞油業が繁栄し、尼崎藩の豊かな経
済力に注目した幕府は、1769年西宮・兵庫港を含む灘の24ヶ村1万4000石を収公
。その替地をして播磨国多可・穴粟・赤穂3郡内1万9000石を与えられる。しかし、主
要部を失うことで、藩の財政は大きく傾いた。1806年忠宝−1813年忠誨−1829
年忠栄と困窮状態が続く中、村々の献金によって大砲七門を鋳造、1861年最後の藩主忠
興は農兵の銃砲調練や砲台5ヶ所の建造を進めた。大政奉還後、旗幟を鮮明にしていなかっ
たが、1868年「戊辰戦争」で幕府軍が敗れると、新政府軍い恭順。1869年版籍奉還
、知藩事に任ぜられ、1871年廃藩置県、1873年廃城が決まる。現在は市街地となり
、遺構は無い。2015年西三の丸の場所に外観復元天守が建てられる。

【所感】尼崎城天守は阪神電鉄尼崎駅の南西に位置し、往時は本丸の北東角に建っていまし
たが、現在は西三の丸の北東角辺りに建っています。昔の絵図を参考に外観復元され、内部
は地階も含めて5階の展示室となっています。展示室の『現在の地図+縄張り図』を見ると
、水堀は全て埋め立てられ、博物館や小学校、工場・住宅が建ち並んでいますが、唯一、庄
下川が往時の形で残っています。
































四重四階 外観復元天守・尼崎城址公園



天守北側の塀・尼崎城址公園



戸田左門氏鉄公顕彰碑・尼崎城址公園



尼崎城址碑・明城小学校グランド南端



尼崎城天守閣遺蹟碑・本丸・尼崎市立歴史博物館



尼崎城石垣の石・本丸・尼崎市立歴史博物館



東大手橋跡碑



大物橋跡碑





二の丸公園・二の丸



櫻井神社・西三の丸