三河 雨山城
Ameyama castle

雨山城跡【愛知県岡崎市雨山町〔城山ヶ入〕】

【立地】山城
【別称】阿知波城・雨山砦・雨山村古屋敷

【市指定史跡】雨山砦跡及び雨山合戦場地

【歴史】築城年は定かではない。織田×今川が対立関係の中、亀山城主奥平貞勝・阿知波城
主阿知波定直が今川氏に叛いて織田方に与したことで、今川義元は東三河の七将〔野田城主
菅沼定村・長篠城主菅沼貞景・二連木城主戸田宜光・川路城主設楽貞通・伊奈城主本多忠俊
・長沢城主松平康高・嵩山城主西郷清員〕に命じ、雨山城へ進軍を始めた。奥平貞勝・貞能
父子の援軍を得た阿知波定直・貞詮兄弟は防御柵〔雨山合戦碑辺り〕を造って合戦に備えた
。1556年8月4日明け方、雨山の東境〔風越峠〕から下って来た今川勢が突進〔雨山合
戦〕。先鋒の野田城主菅沼定村・定貴・定満3兄弟を討ち倒したが、後続の六将に破れ、阿
知波定直・奥平貞勝は今川に降伏した。阿知波氏の出自は尾張国知多郡阿知波郷〔場所は不
明〕で阿知波図書佐定の頃に額田郡雨山に移住したと云う。2代目定基は奥平貞昌〔貞勝の
父〕の娘を娶り、源蔵と定直の二子を儲けた。1543年信州の伊奈衆が東三河に侵入した
際、定基と源蔵はよく防戦したが戦死した。定直は定基の弟雅楽介と共に小田原の北条氏に
仕えたが、後に雨山へ帰る。3代目定直は奥平姓に改称し、甲州に走った和田奥平氏に代わ
り奥平七族の一つとして雨山奥平氏を称した。1992年岡崎市の市指定史跡となり、現在
は城址碑が立ち、砦や狼煙場として使われたのではないかとされる。

【所感】乙女川と雨山川の合流点から始まる県道382号線を3キロ程東進した右手に雨山
ダムのPが有り、ここに駐車します。Pから歩いて300m程戻った右手に雨山城跡の登城
口があり、100m程歩くと道が二手に分かれ、正面の看板に左『近道』右『遠い』と書い
てあります。普通にハイキングとして行くなら右『遠い』へ、直登が平気な人なら『近道』
を選ぶと良いでしょう。『近道』が最初に目指す場所は、阿知波氏の居館〔修理屋敷〕の背
後に迫る標高310mの尾根端で、有事に村民が逃げ込めるぐらいの広さはあることは確認
出来ました。次は城址碑が立つ標高350mの頂で、山頂に近付くに連れて直登のような急
斜面になりますので、足元に気をつけて下さい。山頂は想像と違って自然地形で思ったより
も狭い。雨山ダム〔雨山合戦場〕方面が見える物見に最適な場所ということは分かりました
が、頂から北へ降りた所の平坦地も狭いので、城というより砦・物見・狼煙場といった感じ
ではないでしょうか。帰りは『遠い』道から下山しましたが、『近道』の下山は急傾斜で滑
落の恐れもあるので登り専用で使って下さい。いつか丸太段が設置されることを祈ります。




雨山ダムから見た雨山古戦場



菅沼定村の墓と雨山合戦の看板・県道382号線沿い



雨山合戦の石碑と看板・県道382号線沿い



登城口・県道382号線沿い

























近道の登城道〔青破線〕



雨山城跡から見える雨山ダム・雨山合戦場方面





雨山城跡



















遠い登城道〔黒破線〕



菅沼定貴・定満の墓



近藤彦七の墓



修理屋敷跡辺り・雨山町東アチワ



雨山合戦戦死者の墓 20基・県道382号線沿い