駿河 足柄城
Ashigara castle
足柄城跡【静岡県駿東郡小山町竹之下・神奈川県南足柄市矢倉沢】
足柄山聖天堂【静岡県駿東郡小山町竹之下3649】
【立地】山城
【別称】霞城
【歴史】駿河国と相模国の国境に位置する足柄峠は、平安時代〔794〜1185年〕末期
より足柄街道が通る交通の要所として足柄関が置かれた。1180年『石橋山合戦』では大
庭景親が当地に籠り、1336年『竹の下合戦』では足利尊氏が布陣したと云う。本格的な
築城は、室町時代〔1336〜1573年〕に駿東を支配した大森氏の可能性もあるが、戦
国時代〔1467〜1590年〕、北条氏の支配下になってからとされる。1568年武田
氏・徳川氏双方から今川領侵攻が始まり、甲相駿三国同盟が破棄され、1569年北条氏も
駿東へ進出、諸城の防備を固めて足柄峠にも在番を命じた。足柄城の本格的な築城はこの頃
と考えられ、1571年3月深沢城落城後、1579年8月第2次甲相合戦直前に大規模な
改修が行われている。1582年『天目山の戦い』で武田氏滅亡後、駿河は徳川家康の領国
となり、北条氏は最前線となる足柄城に在番する城兵の統制を強めている。天下統一を目指
す豊臣秀吉との緊張が高まると、足柄城に修築が加えられ、1590年『小田原征伐』の際
は北条氏光を置いて、本拠小田原城を守る重要な最前線として山中城と共に期待されたが、
徳川家康軍によって落城した。
【所感】足柄城跡は県道78号線に沿う形で『本曲輪』〜『五の曲輪』まで順に並ぶ連郭式
の城郭です。『本曲輪』〜『二の曲輪』〜『三の曲輪』は堀切に設けられた土橋で繋がり、
『三の曲輪』〜『四の曲輪』〜『五の曲輪』は曲輪から半島状の土塁が伸びて繋がっていま
すが、それ以外は横堀で仕切られています。私のお勧めは『五の曲輪』北側の長い横堀です
。井戸跡は本曲輪に1つ〔玉手ヶ池〕、四の曲輪に1つ。足柄峠を基点に東へ下る県道78
号線沿い、足柄峠から金時山へ向かう県道731号線道沿いにも曲輪が続いており、大規模
な城郭であったことが分かります。本曲輪から橋を渡った『山の神社』の背後に『山の神曲
輪』、足柄明神の背後に『東曲輪』と『横堀』、足柄峠から南へ県道731号線を少し歩い
た右手に土塁の囲まれた『南曲輪』、その背後に『横堀』が確認出来ます。峠、街道を取り
込んだ珍しい城です。
足柄峠の看板と足柄城址碑・足柄城跡入口
新羅三郎義光吹笙之石碑・駐車場横
玉手ヶ池(井戸跡)・本曲輪
本曲輪
本曲輪−二の曲輪間の堀切と土橋
二の曲輪
二の曲輪から見た富士山
二の曲輪東側の蔵屋敷跡と土塁
二の曲輪−三の曲輪間の堀切
三の曲輪
三の曲輪−四の曲輪間の横堀
井戸跡・四の曲輪
四の曲輪
四の曲輪−五の曲輪間の横堀
五の曲輪
五の曲輪北側の横堀
五の曲輪西側の横堀
五の曲輪→四の曲輪の入口?
本曲輪入口と橋
山の神社
山の神曲輪
足柄峠碑
足柄の関
足柄峠一里塚
首供養塚
足柄明神
足柄明神から見た開成町方面
明神曲輪空堀
足柄山聖天堂
南曲輪と土塁
南曲輪を囲む横堀