備中 松山城
Matsuyama castle
備中松山城【岡山県高梁市内山下1】
松山城シャトルバスのりば【岡山県高梁市小高下町】
【立地】山城
【別称】臥牛山城・大松山城・小松山城・新府城・高梁城
【天守の構成・形式】複合式望楼型天守
【国重要文化財】備中松山城天守、二重櫓、三の平櫓東土塀
【国指定史跡】備中松山城跡
【歴史】1221年「承久の乱」の祭、北条義時に属して戦功を挙げた三浦一族の秋庭三郎重信が、1
240年大松山城を築いたことに始まる。秋庭氏5代の後、1332年頃、備後三好の一族高橋九郎左
衛門宗康が入り、城砦を小松山まで広げ、高梁城から松山城へ改称したと云う。1355〜1362年
備中守護職として高越後守師秀が在城したが、1362年城代の秋庭三郎信盛が足利氏に属し、備北の
国人の支援を得て師秀を追放し、備中守護代に治まった。1509〜1574年の間、足利氏の臣上野
信孝が守護代として入り、庄為資・三村家親・庄高資・三村元親と城主が変わった。備中国鶴首城主だ
った三村家親が、初め尼子氏の属して勢力を拡大。尼子氏が弱体化すると、毛利氏の傘下に入り、備中
を代表する国人領主に成長した。しかし、家親は宇喜多直家に謀殺され、その子三村元親が家督を継ぐ
が、1567年「明禅寺の戦い」で宇喜多直家に敗れた。1571年元親は毛利氏の援軍とともに備中
松山城主庄高資を攻めて城を奪取、本拠とし、大松山〔標高470m〕・天神丸〔標高487m〕・小
松山〔標高420m〕・前山〔標高310m〕の全てを城砦とした。しかし、宇喜多直家が毛利輝元と
手を結んで三村氏征圧を始めた為、1574年元親は毛利氏から離脱し、織田信長に与した。この行動
が毛利氏の怒りを買い、毛利輝元は吉川・小早川に三村元親討伐の命を下した。小早川隆景が指揮をと
り、三村方の支城である国吉城・楪城・鬼身城・荒平山城・幸山城を攻め落とし、本城である備中松山
城へ迫った。隆景は松山城の落城に手こずっていたが、天神丸を守る竹井直定と河原直久の調略に成功
し、大松山城と小松山城〔松山城〕が遮断されたことで落城に至った。脱出した元親は城下の松連寺で
自刃した。その後、毛利氏は家臣の天野五郎左衛門、桂民部大輔を城代として置いた。1578年尼子
氏の忠臣山中鹿介が、織田信長の支援を得て主家の再興を目指し、尼子勝久を擁して播州上月城に入城
。毛利氏は鹿介を討つ為に宇喜多氏と出兵し、松山城に本陣を置いた。上月城落城後、毛利氏に降った
山中氏を松山城へ護送中、高梁川河畔で殺害した。豊臣秀吉の家臣小堀正次は、1600年「関ヶ原の
戦い」の際、徳川家康軍で参戦し、備中国内において1万石を加増され、旧領と合わせて1万4000
余石を領して松山城に在城した。しかし、松山城は荒廃していた為、小堀正次・政一〔遠州〕は城下の
頼久寺で政務を執った。1605年頃から、政一は城主の居館・政庁であった御根小屋〔御下屋敷〕の
修築を進め、1608年頃から松山城の修築、城下町の整備に努めた。1615年政一は近江国浅井へ
移り、1617年因幡国鳥取6万石池田長幸が6万5000石で入封し、松山城を居城として立藩した
。1632年長幸が没し、1641年その子長常は嫡子無く没した為、除封となった。1642年備中
国成羽から水谷勝隆が5万石で入封し、高梁川の高瀬舟水路の開発・玉島新田の開拓・千屋鉄山業の振
興などを行う。1664年勝宗が継ぎ、弟勝能に2000石を分与。1681年から3年掛けて、勝宗
は松山城を大修築を行い、現存する二重櫓やその他の櫓、大手門などが建てられ、現在の松山城が完成
したと云う。勝宗の後を継いだ勝美は、1693年養子となった勝晴が遺領を継ぐ前に没した為、嫡子
無く除封された。1695年上野国高崎から安藤重博が6万5000石で入封、その子信友は、170
9年寺社奉行に任ぜられたが、1711年美濃国加納へ転封。山城国淀から石川総慶が6万石で入り、
1744年伊勢国亀山へ移り、入れ替わりで板倉勝澄が5万石で入封。勝武−勝従と続き、勝政は奏者
番から寺社奉行に任ぜられ、1789〜1800年藩校「有終館」を創設。勝唆を経て、勝職は奏者番
となり、1838年焼失した江戸城西の丸の再建にあたって7500両を献上、やがて藩は財政難とな
る。勝職には嫡子が無かった為、1849年伊勢国桑名藩主松平定永の八男勝静を養子に迎えた。勝静
〔松平定信の孫〕は儒学者山田方谷を登用し、借財整理・殖産興業などの藩政改革を成功させた。奏者
番から寺社奉行となり、1858〜1859年「安政の大獄」に於いて大老井伊直弼と対立、罷免され
るが、1861年と1865年に老中に就任した。1868年「戊辰戦争」では奥羽越列藩同盟の参謀
となり、箱館まで転戦したが、1869年禁錮に処された。松山は3万石に減封、勝弼は家督相続は許
され、高梁藩と改称。1871年廃藩置県を迎えた。1940年天守解体修理、二重櫓・土塀を補修。
1950年松山城天守・二重櫓・三の平櫓東土塀が国重要文化財に指定される。1560年天守補修、
土塀解体修理が完了。1994年から3年かけて本丸南御門・東御門・腕木御門・路地門・五の平櫓・
六の平櫓・土塀などが復元される。2003年部分解体を含む天守の大規模修繕工事が完了する。現存
12天守の一、日本三大山城の1つでもあり、人気の高い山城である。
【所感】大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像で松山城が使われていることもあり、更に人気が高
まり、観光客は城見橋公園駐車場に車を止め、ふいご峠駐車場までシャトルバスで行く形となっていま
す。ふいご峠駐車場が14台しか止めれず、直ぐにいっぱいになってしまうので、バスを運行している
そうです。その後、天守までは山道を歩きます。アスファルト路を歩いてしまうと、中太鼓櫓台を見る
ことが出来ませんので、ふいご峠駐車場の地図で確認してから進みましょう。私が特に感動したのでは
「大手門付近の石垣群」「本丸・天守曲輪の建物と石垣」「大松山城遺構群」の3つに大別されます。
「大手門付近の石垣群」は大河ドラマのオープニングに出てくる岩盤上の石垣と土塀、大手門跡の石垣
、三の丸を支える石垣から成っています。三の丸を経て、その上段の厩曲輪へ入れば、大手門から見え
た土塀に行くことが出来ます。二の丸へ入って櫓や天守が見えると、長い登城道を登り終えた達成感と
、これから建物へ入るワクワク感が同時に湧いて来ます。一般の観光客は「本丸・天守曲輪の建物と石
垣」を見たところで帰りますが、城跡好きやハイカーは水の手門跡から先の尾根道を進みます。私は大
松山城跡や大池、切通堀切がどういうものか見たくて行きましたが、そこへ向う道中の遺構も含めて大
変満足行く内容でした。登ったり降ったり4時間程撮り歩きましたが、もう一度行きたい城です。
中太鼓櫓台
岩盤上に積まれた厩曲輪土塀
大手門跡
三の丸櫓東土塀【国重要文化財】
厩曲輪から見た三の丸
黒門跡〔写真:左〕厩門跡〔写真:右〕
厩曲輪
厩曲輪土塀と石垣
御膳跡から見た四の平櫓跡〔写真:左〕御膳棚・トイレ〔写真:右〕
二の丸南端の石垣
二の丸鉄門跡
雪隠跡・二の丸
復元 南御門(本丸表門)〔写真:左〕復元 六の平櫓内部〔写真:右〕
七の平櫓跡〔写真:左〕八の平櫓跡〔写真:右〕
本丸
二重二階 現存天守・天守の高さ:11m・石垣の高さ:2.7m【国重要文化財】
接続廊下〔写真:左〕天守1階〔写真:右〕
囲炉裡・天守1階〔写真:左〕装束の間・天守1階〔写真:右〕
天守1階−2階間の階段〔写真:左〕天守2階〔写真:右〕
復元 五の平櫓
復元 本丸東御門と石垣
搦手門跡
現存 二重櫓【国重要文化財】
後曲輪と水の手門脇曲輪
十の平櫓跡〔写真:左〕水の手門跡〔写真:右〕
土橋〔写真:左〕番所跡〔写真:右〕
車井戸〔写真:左〕相畑〔写真:右〕
せいろうが壇〔写真:左〕天神社跡から見た「天神の丸」の本丸〔写真:右〕
「天神の丸」本丸−出丸間の堀切
大池・修築中
大池横の番所跡〔写真:左〕大松山吊り橋〔写真:右〕
井戸跡・大松山城跡〔写真:左〕本丸・大松山城跡〔写真:右〕
二の丸・大松山城跡〔写真:左〕三の丸・大松山城跡〔写真:右〕
二の丸−三の丸間の堀切・大松山城跡
番所跡の石垣・切通し「堀切」横
切通し「堀切」